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日記、ないしは外出の記録 六月五日

アイスコーヒーに浮かぶ氷の中で光が交錯しているらしく、漆黒の中でわずかに虹色が輝いていた。黒猫の眼のようだった。ミルクを入れてしまったらきっと出会えなかっただろう。

梅雨入り前の、貴重な晴天の日。

少し本屋まで歩いただけだというのに、体育館での授業を彷彿させるほどの汗をかいていた。久々のことだった。不快指数を下げたいがためだけに行きつけの喫茶店に入店した。ここはすこし冷房が効きすぎているが、その日はそれも承知の上だった。平日の昼だというのに、一人で注文を聞き回っている女性は忙しそうだ。キッチンでマスターがマヨネーズを絞っていた。玉子サンドだろうか、BLTサンドだろうか。隣の席は働き盛りをとうに終えた様子のサラリーマン三人組で、定年だの壮行会だの次期社長だのと話し合っていた。その内一人がレモンスカッシュを注文したので、自分の季節の解釈が世間様と合致していることを知った。携帯を凝視していた若い女性が席を立ち、空のグラスと皿が置いてきぼりにされた。彼女は何を注文したのだろうか。
眼前に広がる景色はこんなにも愉快なのに、油断をするとすぐ妄想の世界へトリップしてしまう。目の前に用意された膳には手を付けず、いつも自分の好物ばかり夢想しては脳内で食い散らかして満足してしまう。矯正したい癖の一つだが、共生していくほかないのだろうか。
はっきりとした声で電話に出る女性の声が私のシャツの襟首を引っ掴んで現実へ引き戻してくれた。顎のラインと水平に、横向きに生えている親しらずが窮屈そうに暴れるので右の顎から肩にかけてじくじくと痛痒かった。
帰ったら何をしようか。読みかけの本の続きでも読もうか。久々にギターの弦でも張り替えて歌でも歌おうか。まだ半日分は消費の余地があるその日を有意義なものにするべく、色々と思いを巡らせたが、脳内では言葉と感情と快楽物質が綯い交ぜになり濁流のようになっていた。すぐにでも吐き出さないと、人間の形をした脆い外殻が内側から崩壊してしまいそうだった。
いつでも携帯している黒いハードカバーのノート。文庫サイズのページが残りわずかとなっていることに今更気付く。そういえば、二色ボールペンの黒の方のインクも。隣の文具屋に寄って帰ろうか、いや、それは明日の外出の理由にしよう。文具屋へ入るとつい長居してしまうのだ。
と、このようなことをひたすら書き連ねていると、白かったページが黒に染まり、注文をしたアイスコーヒーのようになった。無意識に力む右手が痛んだ。氷はとうに溶けきり、あの虹色はまるで幻だったかのようにどこかの宇宙へと旅立っていた。

銀の硬貨を四枚だけ手渡し、冷えすぎた店内から暑い外へ出た。脳が風景を認識しきれていなかった。まるで焦点が合わない。平衡感覚がとても変だ。まるで夢でも見ているかのようだった。己の妄想が遂に現実世界へと侵食しはじめたのだろうか。もし本当にそうだとしたら末期だな、しかし、趣味とはいえ作家を名乗るのであればそれも満更ではない。などと考えながら辛うじて帰宅した。それがどこから来たものだか未だに分からないが、熱に浮かされ始めていたのだと気が付いたのは翌日のことだった。

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