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能登半島地震を記録する(宝達志水町柳瀬)

能登半島地震で被災したすべての方にお見舞い申し上げます。
そして、被災地に心を寄せてくださっているすべての方に感謝申し上げます。

元日という年始のめでたい日が、2024年の最低最悪の幕開けとなりました。

私は出身の宝達志水町柳瀬(やなぜ)という地区で被災しました。幸運なことに、私や家族に怪我はなく、家財被害はありません。

宝達志水町は「口(くち)能登」に分類されます。直線距離で70キロ以上離れる「奥能登」の珠洲市や輪島市、能登町など被害状況を比べたところで数値上は比較になりません。実際、柳瀬では人的被害はありませんでした。

ただ、柳瀬では上水道配水管の被害が発生し、5日夕方まで断水が続きました(宝達志水町内では依然として断水が続いている方もいます)。建物被害により家に住めなくなった方もいます。そのことも、ようやく本日報道されたばかりです。

私は短時間ながら津波から避難し、情報共有の難しさを理解しました。元日の夜を避難所で過ごし、開設に至る間の経緯やその後の運営、備蓄品と避難数のギャップ、その分配の困難さに直面しました。

いま言えることは私自身、防災に対する意識が未熟だったということです。2021年頃から珠洲周辺で群発地震が活発化し、報道されてもいました。「いつか大きな地震が来る」そういう漠然とした不安は、私のみならず家族でも共有されていました。

では、それに向けて私や家族が何を準備していたかと問われれば満足な回答ができません。「いつか来る」と問題を先送りにした結果、私は不安と恐怖から抜け出せないままでいます。

でも、そんな悠長な時間はないように思います。改めて日本が地震大国であること、いつ被災してもおかしくないことを理解しました。だからこそ、次に進むための準備が必要です。

私の身の回りで何が起きて、どう思ったか。誰が何をして、誰が何をしなかったか。公開できることは限られるかもしれないけれど徒然記録していきたいと思います。

これは、国や行政、組織や団体、誰かを非難するためのものではありません。今後、柳瀬で私や家族が被災したとき、全員が五体満足で、いち早く日常に戻るための足掛かりとするためのものです。

<記事メモ(1/7時点)>
● 柳瀬の被災状況(1/1〜1/7)
● 発災後から3日間の行動(柳瀬)
● 発災後3日目〜7日目までの行動(金沢と柳瀬の往復)
● 我が家の耐震改修の検討・実施
● 柳瀬で防災計画を検討できるのか
● 能登に行かないという支援

能登半島地震の救助が思うように進んでいないのはご存知の通りです。交通インフラがズタズタとなっただけではありません。圧倒的な現地のマンパワーも不足しています。このため「見捨てられた」「棄民」などという表現も「X」では多く見かけられます。被災者自身から「見捨てるのですか?」というような投稿もされていました。被災から1週間、ろくな支援が受け入れられていないことを思うとそれも当然の反応と思います。

一方、のと里山海道の上り線を走っていると、毎日多くの救急車や消防車、自衛隊、警察とすれ違います。何かサインを掲げているわけではありませんが、トラックや電気工事関係車両、通信車両などともすれ違います。普通の一般車に見えても関係者の方という車両も多くあったに違いません。

「見捨てられたか」といえばそうではないように思いますが、その検証はこれから行われるべきものでしょう。しかし、被災者の「見捨てるのですか?」という問いに「まだ見捨てられていない」と回答したり、被災者自身が納得したりするのは難しいように思います。私自身、どう回答すればいいか、何が正解か全くわかりません。

でも、とにかく前に進む必要があります。

まとまりのない文章ばかりになると思います。間違いもまわり道もあるでしょうが見守っていてください。

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