ゲーム実況に救われている
※ゲームの内容に関するネタバレを含む場合があります
私はゲームが好きである。
これはゲームに折り込まれるギミックやストーリーの魅せ方、音楽、スチル、知識、演出等々……を含めたゲームというジャンルを信仰しているのに近い。
その気持ちとは真逆に私はゲームに向いていない。下手だし、謎が解けないし、単純にゲームの電源を入れるという動作すら腰が重い。
私の場合、ゲーム自体やろうと意気込まないと始めることができない、精神力を割く行為なのである。自分でやる気が起きない。ゲームをやっていないので下手で、下手だから失敗して落ち込んで、ギミックが解けず詰まり、攻略が進まず、ストーリーやら音楽やら世界観に浸る余裕がない。『こういう挙動をしたい』に操作がついていけず、理想と現実のギャップに悲しくなってしまうのである。ゲームというジャンルは好きだがゲームプレイはできない、戸口で転び続けているタイプの人間だ。下手でも楽しくて、やり続けることができるならそれも才能だと羨ましく思う。
だから私は「ゲーム実況」というジャンルに触れてよかったと思う。
実況者にやってほしいと願うばかりで自分で買わないしやらない、という話題は寄り添うし、中身は得ているのに対価を払わないのはズルさを感じるのはわかる。実際の購入数や宣伝効果のほどは知らないので広げないが、中身だけ見て買わなくていいやと済ませる人より、面白そうなので買ったという人のほうが多いといいなと思う。でも実況配信がない方がいいということは決してない。
ゲームができない部類の私でも、ゲーム実況を見て買ったゲームはいくつかある。しかしクリアまでできたのはたったの一本である。
ゲーム実況者の上手くて面白い動画を見て、自分もやりたいと始めても、経験の差が広すぎる。今は特に映像が綺麗で解像度が高いので、私はデスストのMOBに追われる挙動すら怖すぎて進められなかった。追われることに慣れていない。ホラー系が苦手でもバイオハザードを見ていることはできるが、プレイすると操作と処理が生じるためテンパってできないタイプといえば少しは通じるだろうか。
わりと落ち込んでゲームの電源を入れる手が遠のいた。
自力でクリアすることを諦めている。
隣で代わりに誰かにクリアしてほしいと思っている。
私が浴びたいのは、バトルやギミックを突破した爽快感とストーリーへの没入感だ。それがひとりではどうあがいても難しい。ゲーム実況という概念は、そこに差し伸べられた救いの手のひらだ。
私の隣でゲームをしてくれる人たちなのだ。
ゲームは、自分でプレイするだけではない。
友達の家にいってゲームしている姿を見ることが好きな人がいるように、私も兄弟がゲームしているのを見て育った。ストーリーがあることを知り、攻略本を読んで世界設定の深さを知り、キャラクターの魅力を知り、バトル技術を知った。それだけでゲームを無条件に好きになった。
自分一人ではシステムについていけずクリアできないだろう私は、他人が介入することで同じようにストーリーに涙してバトルにはらはらし、感動を噛みしめることができたのである。
ゲーマーが勧めるとてもいいゲームがある。ネタバレを見る前に自分でやってくれ!と願われたゲームもあるし、自分でやるからこそ染み渡るんだよと熱弁する気持ちもわかる。
だけど再三言うように私はゲームがへたなのである。狭義では操作の話だけれど、広義では世界に入り込むちからの話になる。
例えば、私は某RPGゲームやノベルゲームなど主人公に人物像が与えられていない作品をプレイしたことがない。主人公に自分の名前をつけるという習慣がなく、もう設定も名前も夢も武器も持っているキャラクターが、こういうふうに考えながら動くんだなと追随する楽しみ方をしていたので、主人公を託されるとぎょっとする。何を考えてどう行動すればいいのか分からなくなってしまう。自分だったらどうする、と問いかけられても面白いことをしたい自分と真剣にしたい自分とはっちゃけたい自分と力ですべて解決していきたい自分などいる。それをそのまま投影すると破綻した人間像が出来上がる。そんな主人公は見たくない。だからデフォルトの設定に頼り「きっとこういう主人公が求められているのだろう」という考え方で操作をする。結果、途中で解釈の広い主人公像がわからなくなり、主人公と自分が乖離しすぎて理解できなくなってしまうのだ。世界に「自分」というかたちで入り込むのがへたくそなのである。もうすっごいへた!!!!!!!!
だから人のプレイで中の人が「俺はこうだ!」というプレイをしているととても楽しい。この人はこういうスタイルなんだ、じゃあこの人は、など同じゲームなのにたくさんのシナリオがあるように思える。
私ひとりではうまくできない解釈を、ゲーム実況を通して噛み砕いて咀嚼することができる、みたいな感じだ。
あとはもうシンプルに、UNDERTALEのGルートのようなバチバチにやばいプレイスキルが必要なストーリーはゲーム初心者が弾かれる世界線なので、人がプレイするのを観ないと永遠に得られない栄養素なのだ。
ゲームができない私のような人間がゲームの内容に触れられるのはここしかない。
ストーリーの話だけではない、ギミックや伏線、散りばめられた小ネタ、風景、神話や歴史などを含む知識、世界観その発想事態に対してだ。
ゲーム実況に初めて触れたときはまだ、自分がやっていないゲームのストーリーを知りたいという気持ちだけだった。あらすじではなくキャラクターの掛け合いを見て、ストーリーの『感じ』を知りたかったのだ。しかしゲーム実況が一大ジャンルになり、動画配信を席巻するようになると、いろんな分野の実況があるということに気づいた。
実況者という区分を知らなかった頃、好きなゲームのシリーズだけを追っていた私は、ゲーム実況者本人の挙動を楽しむというジャンルが開拓されていることを知った。あの人がプレイする○○が観たい――そんな入り方もあるのか、と私は勧められたYouTuberを観始めた。実況者の誰という話を始めると推しの話で脱線するので言及しない。
そこで「ゲーム実況」をする趣味と実用を兼ねるくらいゲームが好きな人たちの熱意を思い知った。
手が空いたらゲーム機の電源を入れ、気分転換に別のゲームを選び、息を吸うようにパソコンを立ち上げることができる人たち。ゲームの発売を楽しみにし、課題や仕事を片付け、時間を確保し備えてゲームを満喫する準備ができる人たち。
ゲームの祭典に足を運び、自分でゲームを作る人もいる。
私の兄弟はまた別の方向性のゲーマーなのだが、彼は帰ってきてかばんを置くと同時にゲーム機の電源を入れる。ゲームをやるという意思しか感じられない。
ゲームが大好きだと全身で発信しているのだ。
そういうことができるのが、うらやましい。
そういう人たちが新しいゲームを開き、進め、新しい世界を見せてくれる。本を好きな人が次から次へと本を手に取るように、「見ている世界」を共有してくれる。
そのおかげで私は知らなかった世界に触れられるようになったのだ。
MHW:Iは私が初めて触れたモンハンシリーズである。それまでは存在しか知らなかった。ゲーム実況を見て買った作品で、クリアまで行き着いた唯一のゲームだ。
今までボタンを押していればなんとかなった脳筋プレイではどうにもできないゲームだと思う。きちんとした生態に成り立った挙動は、一定のアルゴリズムに慣れていた私には理解不能で怯えまくっていたものである。マスターランク300を超えた今でも、ひとりで戦うには覚悟を決めるまでに時間がいる。
ストーリー初期に戦うボルボロスのクエストに3回失敗したといえば初心者の腕前がわかるのではないだろうか。
同じように始めたフォロワーが多く、経験者・初心者をふくめ、一緒に進められたことがクリアできた要因なので、ひとりでは絶対に無理だった。
そこまでしないと、そこまでしても、私は自力でゲームにのめり込む動力がないのだ。
始めることさえ難しい私の手元には、今も積みかさねたままのゲームがDLだけされて眠っている。
好きなのに、ゲームができないことに絶望するくらいには、ゲームというジャンルが好きだ。
自分でできないことに苛ついて駄々をこねて泣きわめいて負け惜しみにゲームを嫌いになりたくない。でも自分でプレイするゲームはうまくいかなくて負の感情ばかりたまってしまう。
それを救ってくれたのがゲーム実況だ。
その技術がどれだけすごいのか真にわからない。そのプレイヤースキルを何十時間かけて鍛えてきたのか想像もつかない。けれどその努力を、好きだという気持ち一つ、挑戦したいという志しだけで世界に発信してくれるおかげで、私はゲームに憧れ続け、好きになるものが増え、ゲームを好きでい続けることができる。
失敗しても楽しそうに、悔しそうに、それでもリトライをし、あるいは別の目標をたて、考察する人たちは好きで見ていられる。楽しんでいる姿に感応し、自分も楽しいと感じられるから。
あの感動を、その情景を、この緊張感を、あらゆる新しい世界を。
味わえて本当によかったと思う。
ゲーム実況者の方へ。
発信してくれてありがとう。
おかげで私は今も、ゲームを好きでいられます。
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