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いつかの憧れ

「やりたいことがあるのなら、やった方がいいよ。」
会社の先輩である佐藤さん(仮名、女性)に言われたのは去年の年末の寒い冬の夜だった。その日は私か佐藤さんのどちらかが夜勤でどちらかは遅番のシフトだったがどっちがどっちだったのかは記憶が定かでない。その時、私たち二人しかいないオフィスのフロアで私と佐藤さんは(言い訳に聞こえるかもしれないが)このまま今の仕事を続けていると結婚や恋愛をしたいという気持ちがどんどん下がりそうだという話をした。去年の12月のnoteにも綴っているように、2023年は社会人人生の中で一番働いた年で、プライベートで余裕を持つことが少なかった。休みの日は寝て終わることが多かった。どんな一年でしたか?と聞かれたら仕事しかしていない一年でしたとしか言えないのは少々切ない。仕事をやればやるだけスキルや仕事内容は充実しても、プライベートは反比例だ。佐藤さんに「私、今年も彼氏ができずに終わります。もう結婚できないかもしれません。」などと自暴自棄ともいえる話を恥ずかしげもなくした。彼女は「わかるよ。この仕事を二年以上務めるとそんな風に思えてくるものだよ。」と共感と理解を示してくれ、彼女は続けて「絢さん。やりたいことがあるなら、やった方がいいよ。仕事よりも大切なことはあるからね。恋愛でも結婚でもいい。何がやりたいかをちゃんと見つけた方がいいよ。」と優しく諭してくれた。「私は年齢的に子供も望むのが難しいし、結婚も考えていない。もちろん、そういう一緒にいるパートナーもいない。それをわかってしまったからこそ、次のこと、一度しかない人生の中で’’自分が何をやりたいか’’を考えているの。今すぐどうこうとかじゃないけどね。だから、私もいずれこの会社を去ろうと思うの。」と言われた時、佐藤さんが退職を考えていることを初めて意図せずに知ってしまった。あの時の私は他人からやりたいことは何か聞かれても即座に答えられななかっただろう。彼女の言った「やりたいことをやる」という言葉が今日も頭から離れない。

人の入れ替わりがまあまあ激しめの我が部署で佐藤さんはいつも冷静で、黙々と仕事をするタイプで、クールという言葉が部署の中で一番似合う人。同じチームになったことはないが、それでも通勤で同じ路線の電車を使っているので通勤中によく彼女を見かけた。一緒に話しながら帰ったことも2回ほどある。動物の話をした。犬と暮らしたい。大型犬がいい。佐藤さんと同じチームの早坂さん(仮名)の家はゴールデンレトリーバーを飼っているから羨ましいという内容だった。遅番のシフトが一緒になった時は仕事が終わった後にどちらかのデスクの周りで話すことがよくあった。佐藤さんは仕事ができる人だったので大抵は仕事のことだったが、たまにこうして私がこの部署の中で女性の仕事とプライベートの両立というようなことで話を聞いて欲しい時に会話ができる唯一の先輩が彼女で、勝手に頼れるお姉さんのように思っていた。


「5月15日を最終日として佐藤さんが退職されることになりました。」

このメールが部署で全体配信された時、部署の人はかなりざわついた。そりゃそうだ。退職する雰囲気を一ミリも感じさせないのが佐藤さんなのだから。まさか佐藤さんがという周りの様子に対して私だけが違った。驚かなかったし、佐藤さんにやりたいことが見つかったのは喜ばしいことで、自分の人生をよりいいものにするために進んでいこうとする姿をかっこいいなと思った反面、心のどこかであの夜のような話ができる先輩がいなくなることの寂しさに気づいた。気づいたとて今更遅い。

佐藤さんの最終出社日である5月15日は私が振替休日で休みだったから、14日に直接今までのお世話になりましたという気持ちを込めてアニエスべーのヘアアクセサリーと手紙をお渡しした。佐藤さんはいつも髪の毛を一つに束ねてまとめられていたので退職のメールが配信された時に絶対にこれにすると決めていた。手紙にはあの夜にやりたいことをやった方がいいよという会話が私の自分の仕事とプライベートのあり方を見直すきっかけになったこと、佐藤さんのやりたいことをやり抜いていくスタイルはかっこいいのでそのまま堂々と突き進んでいって欲しいこと。前進していくそんな姿を応援していること。でも、やっぱりいなくなるのは悲しいこと。話を聞いてくださった今までの感謝の気持ちを言葉に書いた。直接プレゼントと手紙を渡す際に「色々不安はあるけど、やりたいことをやりたい気持ちに変わりはないから。」と言った佐藤さんは最後まで素敵で、その揺るがない気持ちからは信念を感じ取れた。

佐藤さんのいない16日。部署の雰囲気はいつもと同じだ。デスクに行くと小さなお菓子と手紙がキーボードの上にあった。誰からと言われなくてもすぐに佐藤さんからの手紙だとわかった。封筒はムーミンのミィが描かれてあって可愛い。業務上、朝は少し忙しいので落ち着いたタイミングで業務中に手紙を読んで涙ぐんだ。佐藤さんは手紙の中でも優しくて、包容力のある方だった。佐藤さんはもうこの会社にはいない。佐藤さんはいなくても私はこの会社で働かなければならない。会社が嫌いなんじゃない。仕事を言い訳にするんじゃない。やりたいことを根本から見つめ直したい。佐藤さんからの手紙は今、私のデスクの引き出しにしまっている。

用事があって池袋に来た。
地下の東武百貨店とルミネの間で陶器のアウトレットセールが展開されていて、そこで綺麗な人に出会った。センター分けで毛先には緩いカール。しっかりまとめられたミルクティーベージュのセミロングのヘア。サーモンピンクのチークに白すぎない健康的な肌におしゃれな丸い眼鏡。白いTシャツにベージュのパンツ。グリーンのサンダルはフットネイルと同じカラーだった。ファッションもメイクもその人が積み重ねてきたものだというのが瞬時にわかった。みんなどうしてもっと注目しないんだろう。私がもう少し若ければ怖いもの知らずでその人に「本当にお綺麗です。インスタしてないですか?」とか聞いていたかもしれない。(もちろんやってない。)


やりたいことをやる佐藤さんにも、池袋であった綺麗な人にも憧れている私もいつかは誰かの憧れになれるのだろうか。それはその時にしか分からない。その『いつか』が訪れる時、私はどこまで自分のやりたいことを突き詰められているか。できなかったことを数える自分ではなくやれたことを数えられる自分であればいいなと願いながらこうしてnoteに言葉を綴っていく日曜日の夜が終わる。さて、月曜日を迎えよう。新しい一日がまた始まろうとしている。



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