信仰義認のその後
キリストを信じて御霊が来た時以降、わたしたちがまだ、肉の力に負けていた時に使っていた、罪のための道具(何であれ、一種の偶像礼拝になると思われるものを指します)はすべて、無意味になりました
「力を持たない」ということです
すさまじい呪いは、主イエスによる十字架での死によって磔(はりつけ)になりました
本来なら神の祝福であったものが、アダムの罪以降、神の呪いとなったのです
そこからの救出は、神がすでに成し遂げてくださいました
罪人である者が、本当に救われて、罪が犯せない理由がここにあります
罪が犯せないのは、ヨハネは「神の再生する種」と呼び、パウロは「御霊の働き」と説明しています
キリストは紙に書かれた「キリスト」という文字ではありません
わたしたちが信じている方は、永遠に生きておられるキリストです
ただ、人間の側にも理解が必要です
性的な罪は、神によって創られた性欲が関係しています
神が嫌悪されている「汚れた思いと行動」は、まさにすさまじい呪いなのです
サタンが攻撃を仕掛けており、かつ、アダムの罪による神の処罰としての呪いがあるのです
つまり、なぜの答えは本能として性欲が体に組み込まれている
だから、性欲の対象に「体とこころ」が魅かれるのです
それで、罪を犯します
「罪から解放された者」はこのことを熟知しています
光の中を歩むとは、パウロいわく、「正気になって、正しい生活をし、罪をやめる」ことです
これが、救いの実体です
すでに、この道を歩んでいなければ、まだ、キリストを知らないのです
キリストの霊を持っていないからです
その人は、まだ、悔い改めていません
ただ単に、知識を増やしても一向に霊的に進歩しない
悪から離れないと救いは来ないのです
どう、思う?
わたしたちも彼と同じ仲間でしょ?
そうさ。
でも、現代のさまざまな宗派のクリスチャン種族たちにはいないわね。
そうなんだ。
信仰義認は、エジプトを出る、その夜の過ぎ越しと同じ。
イスラエルの民はエジプトから救出されたあと、不信仰によって荒野で神に滅ぼされた。
そこから、何を学ぶべきなのかが問題なんだ。
神は言われる
「あなたがたは罪を犯してはならない」
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