言論には言論で対抗すべきで署名で追放するのは暴力である:「Twitter上・講義中に多くの差別発言を行った広島大学助教伊藤隆太氏の差別に反対する署名キャンペーン」に反対する

表題のキャンペーン(https://note.com/movingbeyondhate/n/nd0b6eb7f06c0)が始まっているが、全く同意できないため、反対意見を主張する。これに関連するまとめは,キャンペーンのページにもあるので,そちらを参照しながら意見を述べておく。
 キャンペーンの根拠になったまとめなのだから、さぞかし酷い差別が並んでいるのかと思って読んでみたら、微妙でセンシティブな内容ではあったが、糾弾しなきゃいけないような差別には全く見えなかった。フレンドさんの一人が端的に問題点をまとめたので紹介すると

 「(計画・仮説)⇒観察・記録⇒解析⇒議論⇒評価・結論という科学の文脈の中で、観察・記録の部分に異議をはさむなら、そこに倫理的な価値を持ち込むべきではないと思う。杜撰な構成を批判すべきで、材料そのものを批判すべきではない。

ということである。
 まとめを読んだ限りでは、観察・記録の部分と、解析や議論の部分について、差別だという主張がなされているようにしか見えなかった。社会を対象とする学問であるなら、観察・記録で取り上げた材料に差別やヘイトが含まれることがあるのは必然(そうでないと差別やヘイトが起きることや対策の研究もできない)であるし、解析や議論がうまくいったとしても差別やヘイトを肯定するという意味ではなく計画や仮説が正しかったという意味にしかならない。計画や仮説に倫理的内容が入っているならツールとして不適切の可能性が高いし、解析や議論に倫理的内容が混入するならそれは杜撰なのだろうから、いずれにしても全体の構成を批判すべきで、差別だから糾弾するという方向に飛びつくのは早合点ではないか。

そもそも差別発言なのか

 noteの編集に不慣れのため,画像をうまく貼れないので,ツイートが存在したことの証拠は上記noteの方で確認していただきたい。

元々のキャンペーンのきっかけになったのは,

道徳的に劣っている中国人をまともに相手にする必要はない。心の中で冷たく軽蔑して後はドライに無視すればよい。やられたからといって報復するというのは(被害を受けたことは報復行為の免罪符にならない)、同じ低いレベルに落ちるということなのでやめよう。

というツイートである。しかし,これを差別発言だと決めつけるには文法的に無理がある。この文章だと,「道徳的に劣っている」が中国人全体を指しているとも読めるが,「道徳的に劣っている」が中国人の一部を指しているとも読める。どちらの読み方をしても,文章全体として意味が通る。前者の解釈なら差別になるが後者の解釈なら差別とは言い難い。元のキャンペーンは,どちらの意味にもとれるツイートを取り上げ,差別的な意味であると決めつけた上で,伊藤氏に対する解雇運動を開始した。このような曖昧な文言に基づいて解雇運動することは,明らかに行きすぎであると私は考える。
 なお,私個人は,中国人全体を道徳的に劣っているとする主張については,そういう発想があると思っていなかったし,そもそも個人の差の方が大きい基準を国全体に適用するのは無理があると考えていたので,上記ツイートは後者の意味に解し,具体的には,アマゾンでインチキ出品と嘘レビューを繰り広げている一部の中国人達を真っ先に思い浮かべた。
 上記のツイートを中国人差別だと主張するには,そもそも中国人全体を道徳的に云々することが可能だという前提を共有している必要があるのではないか。そういう意味では,批判側の本性もあぶり出されているように見える。

 次に問題とされたのは,2020年2月19日のツイートである。

一部の人は中国人がコロナを運んでいるという見方がステレオタイプに基づく差別的なものと批判します。しかしピンカーら心理学者が指摘するよう、多くの場合,ステレオタイプは統計学的に真で,進化過程で獲得した合理的バイアスです。差別と統計学的真理の混同は、適切なコロナ対策を妨げ逆に危険です。

 これは,ロシアが中国人の入国禁止措置をとったという産経ニュースへのコメントとして書かれたものである。
 2020年2月は,ちょうど,ややこしい肺炎が世界的に広まりつつあり,武漢肺炎などと呼ばれていた時期でもあった。病原体や疾病の名前に特定の地名をつけないようにするという合意がとれ,広まったのは,もう少し後のことである。この時期は,中国が病気を広めている原因だという説も多数存在した上,ロシアによる中国人の入国禁止措置は(誤報でなければ)事実であり,少なくとも中国人がコロナを運んでいるという見方は一国の政策を決める程度の信ぴょう性があったことになる。同時期に,中国を非難するいわれの無い投稿がSNSにも溢れていた。その状況で,この程度の指摘を差別として糾弾するのは,明らかにバランスを欠いている。

黒人犯罪で殺されたりレイプされたりしたアジア人も沢山いる。どっちの人種が良いとか悪いとかは水かけ論争で、究極的にはモラライゼーションギャップや自己奉仕バイアスによって収拾がつかない。

 これが黒人への差別だとして問題にされた。BLMが権利回復運動であることは確かだが,権利回復運動であることは,批判的意見に黒人差別のレッテルを貼って黙らせようとか,署名によって職を追放しようという事に対する免罪符にはならない。BLMはいつからそこまでアンタッチャブルな存在になったのか。

 次の記述に至っては,伊藤氏の発言ですらなない。

広島大学法学部の講義で、伊藤氏はロマの人々への差別が語られる動画を流しました。
そこでは、伊藤氏と同じくコンシリエンス学会の副会長の宮崎彬が:  「昔はフランスに住んでいたのですが、ジプシーは本当に怖かったですね...恐怖を感じました。本当に数百人単位で、キャンピングカーできて、本当に無法者なんですよね」と発言していました。

 ロマの人々への差別を語った人が現実に存在したことは事実だし,宮崎氏がジプシーに批判的な発言をしたことも事実である。
 なぜそのような発言が出るに至ったのかとか,どう評価や位置付けをすべきか,差別を無くすという価値観に基づくなら何をどうするべきかを考えるのが人文系の仕事だろう。
 現実の差別を提示されたときに,提示した人をただ非難するのでは,事実から出発して論を立てることすら不可能になる。こんなことを理由に追放運動をすべきではないし,伊藤氏を黙らせるべきではない。
 題材だけ提示されてそのままになったために差別の擁護だと勘違いする人が出たのなら,もっとちゃんと指導しろというクレームを入れるべきで,署名で黙らせるというのは筋が違う。

「韓国の人達って歴史問題について日本に対して怒り狂って非合理的な外交政策をしてくるじゃないですか。排外的なナショナリズムに熱狂したあと、韓国の人たちは進化の論理に従って行動しているんですよね。きっとね。というふうに考えてあげると少し許してあげるべきかもしれないですね。(笑)」

 この部分はおそらく説明が必要である。今回,私は,伊藤氏の話題にぶつかって進化政治学という分野があることを知った。私の理解そのものが間違っていたらどなたか教えて欲しい。検索して見つかったのが,例えば次のサイトだった。(http://tmorikawa1221.net/shinkaseijigakutoha.html など)
 まず,進化政治学では,政治学的な事象を説明するために,進化という考え方を生物学から借りた,ということらしい。
 借り物である以上,生物学の方で観測事実をもとに精度が上がっていく進化論そのものに一致するはずもなく,別物である。一旦は政治学分野で進化という考え方を換骨奪胎して再度モデルとして組み上げたところの「進化」ということになる。
 するとここでいう「進化の論理」とは,あくまでも進化政治学分野のもので,生物学ではなく政治学的な事象を説明するために使われるツールに過ぎない。ツールの位置付けをを政治学分野ではどう判定するかについて,私はまだはっきり理解していないが,より多くの,あるいは従来説明が難しかったことを説明できれば有用とされるのだろう。自然観察の裏付けから切り離されている以上,「進化の論理」もまた,考え方の一つとして試されるものでしかない。
 すると,これをことさらに取り上げて,

「進化の論理」を持ち出し差別を正当化し、「許してあげるべきかもしれない」と嘲笑していたのです。

と主張するのは,Moving Beyond Hateによる巧妙なプロパガンダではなかろうか。一般の人が「進化」を学ぶのは生物学分野においてであり,「進化」に対する精度的信頼もイメージも生物学に基づいている。そのことを知った上で,つまり一般の人が生物学上確かなものとして進化を捉えているということを知った上で,政治学上の別物であるということをわざとに隠して,「差別を正当化」と主張しているのではないのか。巧妙,と評価したのは,進化に関する知識とイメージの差を利用しているからである。
 なお、現実に起きている差別を「進化の論理」で説明できたとして、それは差別を肯定したことにはならず、「進化の論理」が政治学のツールとして有用であったと示したことになるだけである。そのことが倫理的に正しいという価値判断と結びついたというのなら、批判のポイントは、提示の仕方が杜撰だったというものになるべきである。

トランプ元大統領の差別に対して、それが「進化の論理に従ってる」として擁護。(こちらも慶應義塾大学の講義にて)

 これにいたっては理解不能である。進化政治学で事象を説明するために使っているツールが「進化の論理」であるなら,変わった事象(=トランプ大統領の差別)を説明可能かどうかでツールの有効性を検証することは,政治学者としての仕事にすぎない。説明に成功した場合,「進化の論理」の適用可能な例が1つ増えただけに過ぎず、トランプ大統領の主張を擁護するかどうかという価値判断はそこには本来含まれないものではないか。

(イスラーム圏の人々に対して)「(一夫多妻制について)ヒエラルキーのトップにいる人たちは女性を複数ゲットできるわけですけど。」
「自爆テロは、自爆テロを行わなければほとんど自分の遺伝子コピーを後世に残すことができない、できたとしてもたいして残せない人が一発逆転するチャンス。」
「自爆テロをすることで、自分の家族はすごいと褒め称えられる。それによって近親者のその後の繁殖可能性が上がる」

 これについては,差別というよりも,単なる伊藤氏の間違いではないか。 

 自爆テロは彼らにとって殉教であり,殉教することによって天国へ行けるという価値観を共有している,というのが私の理解である。イスラム教は現世利益ではなく来世利益を約束する宗教であるといえる。すると,近親者の繁殖可能性という現世利益がいきなり結びつけられることには違和感しかない。この部分については私の理解も怪しいので,イスラム教に詳しい人にご教示いただきたいところである。軽々しく宗教の内容を推し量るのは無作法とはいえる。それでも,上記発言自体は差別というよりは下世話な誤解にしか見えない。本来のイスラムの考え方と異なっているなら,間違いを指摘すれば良いのであって,差別だと言い立てて黙らせたり職から追放しようというのはやはり行きすぎだと考える。

フェミニストは価値のアップデートをしたつもりになっているが(保守主義からの脱却)、真のアップデートは決してできない。なぜなら、#進化心理学 の科学的知見が明らかにする人間本性を受け入れることは、自らの教義の根本的な誤り(標準社会科学モデルの誤謬)を認めることを意味するから。

 これをフェミニズムバッシングだという主張には反対する。フェミニズムに対する単なる異論あるいは反論に過ぎない。フェミニズムに対して批判するとバッシングとされて署名運動によって職を追い出すことが正当化されるとは思えないし,それはただの数の暴力である。フェミニズムはアンタッチャブルな存在ではない。批判はあって当然だし,その批判が失当であるなら,フェミニズムの専門家がきちんと反論して言論で潰せば良いだけのことである。

また、学生の証言によると、伊藤氏は広島大学法学部の講義において以下のように発言していた様です:
「テレビの女性キャスターは美人であるほうがそうでない人より視聴率が高いのは事実」
この発言を講義中に聞いた学生は「女性はやっぱり美人じゃないと。。」と受け取ったらしいです。伊藤氏の発言は学生にも影響を与えていた様です。

 まず必要なのは視聴率に差があるかどうかを示すデータである。データから,美人キャスターを起用すると視聴率が高い,が裏付けられたとして,それをどういう枠組で説明するか,どう意味づけするか,価値判断すべきか,きちんと考えるのが文系の仕事だろう。論を立てるための事実認定の部分に身も蓋もない内容が含まれていたからといって,それを提示すること自体を禁止するべきではない。

同じく広島大学法学部の講義で、「進化論では女性は美人に価値がある」という趣旨の発言を行い、進化論を持ち出して再びセクシズム発言を行っていた様です。

 これを理由として挙げるセンスがどうしようもない。情報募集するのはかまないが,Moving Beyond Hateの主催者は,伝聞によって他人を黙らせたり,署名で解雇を求めたりできると考えているようだ。もう少しマシな証拠を持ってくるべきではないか。また,この発言も文脈に依存する。政治学的な「進化論」なり心理学的な「進化論」で説明しようとするのなら,前後の話を知らない限り,判断のしようがない。ことさらに通俗的な情念を刺激しそうな表現だけを抜き出してきているようにしか見えない。

広島大学法学部での講義で視聴を指示された、ロマの人々への差別が語られていた同じ動画内で、登壇者が「ゲイの人々への偏見」についての統計を見せていました。

 それに対して、学生が伊藤氏に対して、無批判にこれを流すのはおかしいのではないか、とその後問い合わせたところ、伊藤氏は「ヒトがゲイにたいする嫌悪感を抱く心的傾向を持つ」と発言し、ホモフォビアを人間の「心的傾向」として擁護しました。

さらに、この動画を視聴した他の学生はこの発言に乗って、
「ゲイってやっぱり嫌悪感を持つよね」と発言したそうです。

 Moving Beyond Hateの主催者は,ゲイの人々への嫌悪感は存在しない,という主張をするつもりなのか。その方がよほど非現実的だろう。昔の漫画やドラマや小説などを見れば,ゲイへの偏見に基づいた記述は簡単に見つかる。「心的傾向」というのは単なる事実の指摘に過ぎず,肝心なのはその後の方だろう。我々は,人は人として尊重されるべき,という価値観を共有し,実現するために,法整備をしたり社会制度の運用を変えたりして,偏見を無くすように努力してきたのではなかったか。まさにそういう価値を論によって立てていくのが文系の仕事だろう。
 そもそもの出発点において,差別的感情や嫌悪感の存在自体を指摘しただけで,擁護したことにされて非難されるのなら,社会制度をどうするかとか,思想的な裏付けの研究は何一つ進まなくなる。事実の指摘を擁護と勘違いした学生が馬鹿なだけではなかろうか。少なくとも上記の記述からはそういう結論しか私には出せなかった。多分筆者が伝えたかったこととは違うだろう。まだ表に出していない何かがあるなら知りたいところである。

伊藤氏の発言は確かに危うい,が……

 他には例えばこんなものがあった。

画像1

 環境が整わないと素質が活かされない,というごく当たり前のことを,「進化」で説明しようとしたらしい。日常用語だと思って読むと,優生学の一歩手前になりそうな内容ではある。が,慎重に読むと,ここでいう「良い」が価値判断を本当に含んでいるのかから確認が必要だし,「進化」が一体どの分野でいうところの進化なのかはっきりさせる必要がある。
 同様の説明は,教育格差の問題で既に散々目にしてきた。経済力の格差が学力の格差に結びついているという指摘はあって,ロジック自体は経済力の格差で学力の格差が再生産されるという話と何ら変わらない。それが,いかにも危うく見えるのは,「進化」「遺伝子」という,本来は自然科学の概念であったものを持ち込んだことによるのだろう。

 もともと自然科学に価値判断は含まれない。自然科学は,自然現象をいかに精度良く記述するかという学問であって,人間の都合の埒外にある。自然科学からは,人はいかに生きるべきかとか,人生にとって価値あるものは何か,といったことは何一つ導き出せないし,導き出そうと試みるべきでもない。記述はしっかり作るのだけど規範は一切持ち込まないし、持ち込めないのだ。

 自然科学では、観察や実験で得られる結果で理論を必ずチェックする。自然現象を十分説明できない理論は精度が悪いので、そのうち捨てられ、より精度が高いものに取って代わられる。
 一方、社会規範を作る時は全く方法が異なる。世の中に殺人事件が絶えないからといって、人を殺してもよいという理論的枠組みを作りましょう、とはならない。人を殺してはいけないとか、人権を尊重しましょう、といった規範を作ることになる。
 価値判断を決める枠組みと、自然を記述する枠組みは、構築の仕方も違うし質的にも全く別物なのである。これを混ぜると、とんでもなく不道徳だったり、危険なものができあがることになる。
 おそらく、プロの研究者の方には明らかなのだろうけれど、なまじ普段使っている用語と重なる用語で記述するため、ガワから見ていると、単に記述だけをしているのか、それとも価値判断も伴っているのかを峻別するのが難しい。日本語だと素人にも読めてしまう(実際は読んだと思っているだけかもしれないが)誤解と混乱のもとになっていると思う。自然科学だと記述する言語が数学だったりするから、分からん人は事実上その場で門前払いになるので誤解は生じにくいかもしれない。

 だから,自然科学以外の分野で概念を利用するときは,十分に換骨奪胎して組み直して同じ名前だが別物である,ということをはっきりさせるようにしてもらいたい。そうでないと無用の混乱が生じる。

 伊藤氏の言説は,安直に,自然科学の用語と,世間的には価値判断と結びついた用語を多様しすぎているように見える。しかも、そもそもセンシティブな話題と結びつけて語ってしまっている。どうにも雑な話題の提示の仕方のように私には思える。だからといって,それが差別に直ちに結びつくとも思えず、それを理由に職から追放するための署名活動をして良い,とはならないだろう。

学会って……?

Moving Beyond Hate は次のような主張をしている。

 また、伊藤氏が教えている上記の大学が適切に今回の一連の差別発言に対して適切に対処する様にプレッシャーをかけてください。メールを送る、教員に話すなど、できることはたくさんあります。

 そして、伊藤氏はその他にも日本国際問題研究所、国際安全保障学会、戦略研究学会、International Studies Association やAmerican Political Science Associationなどにも所属しています。これらの学会が伊藤氏を会員として、無批判に論文を発表する場を与える続けることは当人の差別に「学問」という正当性を与えることになります。そこで、これらの学会に対してもプレッシャーをかけるのに力を貸してください。

 伊藤氏が加入している学会に対して圧力をかけるよう求めている。こんなことをするべきではないし,全くの筋違いである。
 まず,学会発表というのは,学会に加入しているメンバーの権利である。発表すると必ず批判も議論も起きるのが普通だと思ったのだが、上記の学会は違うのだろうか。論文投稿をすれば,査読に回されて,批判もチェックも入る。仮に日本の学会がしがらみやら何やらで審査が甘くなっていたとしても,海外の学会はそうはいかないだろう。
 他分野のことなので,あまり積極的な評価はできないのだけど,伊藤氏の主張に問題があるとしたら,安易に価値判断を混乱させるような言葉の使い方にあるように思う。であるならば,発言を続けさせた上で,その稚拙さを理由として学問的に淘汰するべきであり,署名によって圧力をかけて発言の機会を奪うべきではない。学会に対し,学会とは関係のないところで行った発言についてプレッシャーをかけるというのは,不当な要求である。学会も困惑するのではないか。

実際他人事ではない

 言論の責任は言論で直接個人に問え,所属組織に問うな,ということを,私はずっと主張してきた。理由ははっきりしていて,消費者保護の活動をしていると,主に悪徳商法や悪質商法をしている人達が大学にクレームをつけにくるというのがよくあることだからである。署名によって黙らせるということが横行するのは問題が大きいのだ。実際,クソみたいな言論であっても,どう考えても世間に害悪だろうというものでも,同じ論理で意見を述べてきた。(例えば http://www.cml-office.org/archive/2011/12/25/depot/1738

 今回,分野が全く違うにもかかわらず反対意見を述べることにしたのだが,本来はこれは文系の専門家の方にやってほしかった。個人的には進化云々が登場したので引っかかったのだが。最初に見た時は,普段扱っているニセ科学の新たな材料かとも思ったが,どうも違うらしいとわかった。

 なお,差別だと言われている内容を読んでも,差別に見えなかったので違和感を持った。まとめられている学生の証言の内容に,これは差別だろうという内容がぞろぞろ出てきたのであれば私も納得できたのだけど,中国人云々のツイートの解釈が決まらなかったので,何だかおかしいと思うに至った。もっときちんと差別とわかる内容が出てくれば意見を変えるつもりはある。まあ,現時点での内容では不足ということである。

追記

 本人が「偏見を増幅する可能性に対する配慮が足りませんでした。傷つけられた方々にお詫びいたします」と謝罪したという記事が出た。
https://www.asahi.com/articles/ASP8C4WMJP8CPITB004.html
 ご本人には失礼を承知で言わせてもらうと,この場合,足りないのは配慮(気遣い的な意味で)じゃなくて,作文の量と質とか,情報を出した後の説明の方ではないのかしら。
 さらに注意すべきことがあるとしたら,価値判断を含めずに書かれた内容を扱う,というのは,書き手と読み手双方に訓練が必要,ということではないか。読み手の訓練が不足している場合,差別を扱って解析して成功したという報告を見て,差別を肯定していると受け取る可能性はある。いずれにしても文系学問(というおおざっぱな括りで申し訳ないが)の方でトレーニングメニューがあるに違いないので,そちらで対応してもらいたい。

さらに追記

 私の読み方がおかしいのか?と思ったので、20日ばかり、ツイッターで、

道徳的に劣っている日本人をまともに相手にする必要はない。心の中で冷たく軽蔑して後はドライに無視すればよい。やられたからといって報復するというのは、同じ低いレベルに落ちるということなのでやめよう。

という内容を毎日投稿し続けた。もちろん、このツイートはパクリである。簡素化のために()内を省略し、中国人→日本人、と変更した。もし、元のツイートが中国人差別=文中の「中国人」は広く中国人全体を指す、という読み方が普通であるなら、このツイートも全く同様に読まれるはずであり、日本人が投稿するので差別というコメントは来ないとしても、日本人を全部一緒にするなとか、主語が大きい、といった指摘は来るはずである。

botを使ったわけではないので、休日に投稿を忘れることもあったし、投稿時刻も一定しなかったのだけど、1ヶ月近くやってみた結果、いいねとRTがいくつかあったが、「日本人」を日本人全体の意味だと受け取ったコメントは皆無だった。つまりこの文章だと、「道徳的に劣っている」は、日本人全体を指すのではなく、日本人のうち道徳的に劣っている人、と、限定する方向で読まれるということが明らかになった。

つまり、今回、差別を糾弾した人達は、普通に読めば中国人のうち道徳的に劣っている人、という、中国人の一部を指す表現を、意図的に中国人全部を指すと言い張り、差別だと言い立てていた可能性が高いと考えられる。

「道徳的に劣っている日本人」と「道徳的に劣っている中国人」で、一方はその国の人のうち条件に当てはまる人、となり、もう一方がその国の人のすべての属性である、と解する合理的な理由はないだろう。中国人と書いた場合だけ差別として糾弾されるとしたら、糾弾する側こそが、わざとに差別表現を探そうという差別を行っているからだと考えるしかない


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