シン・エヴァンエゲリオン:||考察&感想②〜”シン”に向き合う〜

前回までのあらすじ。

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||(以下、シンエヴァ)は全体的に劇中劇の体裁をとっているという前提から、その舞台装置そのものに込められたものをストーリーラインから考察していこう!というのがこのnoteの趣旨になります。

●使徒=人間関係における通過儀礼、メタファーであることから、この物語をシンジくんが精神的に成長(し幸せになる)物語と仮定
●この中で、主人公である碇シンジくんは「Q」まで自分の気持ちにごまかしをかけていると考察。本当はただ「傷つきたくない」というのが彼の生きる上での目的ですが、それに対する「綾波を助けるために」というごまかしです。

「Q」においても、「カヲルくんに言われたから」槍を抜いてしまうのですが、これも結局は全てを槍でやりなおして自分が傷つく世界から抜け出したかったり、何かあってもカヲルくんのせいにして、自分は傷つきたくないという心理が背景にあります。

これだけ聞くととんでもないやつですが、10代なんかこんなもんで、ロボットに乗って戦っているだけで十分偉いんです。私たちはアニメだからといって主人公に厳しくなりがちなのですが、大人しく理性的に動ける主人公なんていうのは、アムロ・レイが特殊なだけなんですよ・・・

シンジくんが成長し幸せになる道=ごまかしをやめること

シンジくんは今まで「逃げる」「逃げない」という選択を作中よくとる子供でした。これの本質も、単純にエヴァに乗りたい・乗りたくないという問題ではなく、彼自身が「傷つきたくないから」→乗るのか、乗らないのかという判断をとっていることで説明ができることが多いです。

繰り返しますが、この”ごまかし”から抜け出し、自分自身に向き合い、理解することがシンジくんにとっての幸せに繋がるのだと思っています。それを達成したのがシンエヴァでした。今まで決して気がつくことのなかった”ごまかし”がわかったのは、以下の流れだったと記憶しています。

「Q」でカヲルくんを失って傷つくヤマアラシ状態のシンジ
(チョーカートラウマ持ち)

アスカ:叱咤(物理)
トウジ:見守る
ケンスケ:シンジが救った世界を見せる
レイ:シンジへの前向きな気持ちを伝える

シンジくんが”大人になる”

シンジくんが最終的に吹っ切れたきっかけは、ケンスケとレイが示した「シンジくんのことを嫌いになんてなっていない」という気持ち。
傷ついたはずのシンジくんですが、二人のこの気持ちに触れて気が楽になる=つまり、自分がハリネズミ状態になっていたのは、他者との関わりの中で自分が拒絶されることへの恐怖から、もう傷つくことがないようにとじこもっていたのだと自覚します。

実際のところ、自分自身が立ち直れないのは、ニアサードとフォースインパクトに関わりやり直せないことをしてしまったことではない、ということがわかったのではないでしょうか。もし本当にそうだった場合は、ケンスケとレイの行動で彼の心が変わることはないですよね。

そしてここで心にとめておきたいのは、シンジくんが本当の自分の”目的”に気がついたきっかけは、ケンスケとレイの心からの言葉でした。
心の壁=ATフィールドを自らはずし、自分の素直な気持ちを相手に向けることで、本当の対話ができることを、シンジくんは自分の身を以て理解できたのかなと思いました。

たくさんの犠牲の上に、シンジくんにとって最後の通過儀礼が達成されました。

「シン」とは何か

さて、ここで一度、シンエヴァのタイトルについて考えたいのですが、私は公開前、シンには色々な意味が含まれていると予想していました。

Sin=「罪」と考えると、エヴァの登場人物たちにはそれぞれ罪が(とまでは言わないですが過失レベルで)ありました。

シンジ:自分の本心から逃げたこと、その結果やらかしたことの責任
ゲンドウ:奥さんおっかけすぎ、シンジ放置
ミサト:加持のことが好きなのにごまかしてる、シンジのケア不足
(&シンエヴァで明らかになった息子放置)

個々人別にありますが、すべてに共通しているのは、「全員コミュニケーションに難がある」ということです。

エヴァ「Q」では彼らが正しく対話ができないことで齟齬がうまれ、結果としフォースインパクトが発生し、カヲルくんが犠牲になります。バベルの塔さながら、人類は対話の齟齬によって自壊していくのだということを描いたのが「Q」であり、問題提起となる章になったと思います。

(↓ちなみに、シンエヴァ公開前にこんな予想をしていたのですが、だいたいあってましたね)

このコミュニケーションの問題こそがキャラクターたちの「SIN」であり、贖罪が果たされないまま複数の物語が紡がれてきました。
シンエヴァが全てのことに決着をつけるためには、この問題と向き合わないわけにはいかなかったのでしょう。

シンエヴァの果たすべき最後の目的が、シンジくんを含めて「人類が抱える対話という問題にどう向き合うか」であり、そのために必要なのが前述の「心の壁を取り去り、素直な気持ちで対話すること」でした。

旧劇場版では、この問題を乗り越えることはなく、人類補完計画によって肉体を取り去り、自他の区別をつけない世界に再構築する=ある意味、問題から逃避する形で終わっていましたから、今回こそはこの問題に真っ向から向き合うのだろうと思っていました。

父・ゲンドウとの対話と明らかになる「舞台装置」

父ゲンドウとの対話。

エヴァという物語において終始描かれてきた(使徒との)戦いにおいてメタファー化されていたシンジくんのための通過儀礼が、ついに「舞台装置」としてわかりやすい形で描かれます。安っぽい「セット」に、幕。ときにセットを突き破るエヴァ初号機というのは、私たちがテレビ、旧劇場版と見て来たエヴァンゲリオンが「箱庭」であることを明確に示して来ます。

シンジが自らの父への心の扉を開けて、「話がしたい」と言います。

ゲンドウは初めて愛した女性を失って以来、シンジに対して自ら壁をつくっていたことを明かします。シンジを見るたびに妻の面影を見て、失ってしまったことを実感することが怖い。結局はゲンドウもシンジくんと同じ「傷つくことが怖かった」のです。それにゲンドウもシンジくんも気がつき、和解します。

エヴァという作品は、最初から最後まで他者との衝突を描くものであり、そのなかでゲンドウとの衝突がやっときた!という感激ものです。これをあえて劇中劇として描いたことについては、作り手が意図的に見せよう、取り入れようとした意思を感じます。エヴァという物語そのものの本質が、この二人の対話にあり、「エヴァとして描かなければならないもの」として見せたかったのではないでしょうか。
(だからこそゲンドウも、対話こそが必要なことであり、見えているものには意味がないと(いうような的なことを)言います。これはとてもメタ的な発言で面白いですね。)

ちなみに①ゲンドウに碇ユイが、シンジにカヲルが見えるようになった理由

全く他の方の考察を見ていないので、もしかしたらもっともらしい考察が他にあるかもしれませんが、、、

個人的には、ゲンドウにユイが見れるようになったのは、その前にあるシンジくんがカヲルくんを知覚できるようになった事象と同じだと思います。
それは、「肉体的な死を受け入れた」ということと、彼ら自身が人の身を捨てて「神(シン)」に近くなったということでしょう、

シンジくんもゲンドウも、それぞれの大切な人の肉体的な死を受け入れられない状態にありました。ゲンドウはユイに「会う」ことが大きな目標になっているわけですが、根底にはユイの死を受け入れていないから起こる発想です。だからこそ、ゲンドウはユイの面影を感じさせるシンジを遠ざけ、自ら壁をつくってきました。

ただし、シンジくんもゲンドウも、それぞれの方法で彼らの大切な人の肉体的な死を受け入れました。彼らが感じたのはいわゆる「形而上的な存在」です。肉体は滅んでも魂は滅びない。インパクトを肉体、精神にわけてそれぞれ起こす必要があることからも、エヴァ自体は心身二元論的な立ち位置をとっているのでしょうね。

実体二元論(じったいにげんろん、英: Substance dualism)とは、心身問題に関する形而上学的な立場のひとつで、この世界にはモノとココロという本質的に異なる独立した二つの実体がある、とする考え方。ここで言う実体とは他の何にも依らずそれだけで独立して存在しうるものの事を言い、つまりは脳が無くとも心はある、とする考え方を表す。ただ実体二元論という一つのはっきりとした理論があるわけではなく、一般に次の二つの特徴を併せ持つような考え方が実体二元論と呼ばれる。
ーWikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E4%BD%93%E4%BA%8C%E5%85%83%E8%AB%96

ゲンドウに関しては初号機と戦い、和解することで初号機に取り込まれているユイが知覚できたということなのかもしれませんが、文学としての”見ることができた理由”としてはこういうことかなと考えています。まあ「あなたの心の中で生き続けるわ」ENDですね。

カヲルくん「シンジ君は安らぎと自分の場所を見つければいい。縁が君を導くだろう。 そんな顔をしないで。また会えるよ、シンジ君」

カヲルくんの「Q」のセリフは結果として、安らぎと自分の場所=第3地区のみんなの縁をきっかけに導かれたシンジくんが、自分と向き合った結果、神(シン)なる存在になり、肉体を持たない形而上的な存在として世界を漂うカヲルくんを知覚でき、「また会える」ということだったのかなと。

ちなみに②いつシンジくんは「神(シン)に近い存在」になったの?

これも全く考察とか見ていないので、きっと正しい回答がありそうですが、、、

破の段階でビーストモードを発動した時点で、神になる条件は揃っていたのではないでしょうか。(人の姿を捨てたエヴァを発動させた)
その後ニアサードを起こしていたので、シンジくんの体自体は神に近い状態だったのだと言えます。事実、実際半分神に近くなっていたアスカもシンジくんと同様DSSチョーカーをつけられていました。これは、二人が同じような状態だったことを示していたのではないでしょうか。

ミサトの告解

ミサトは「破」でシンジくんにこう言いました。

「行きなさいシンジくん!誰のためでもない!あなた自身の未来のために!」

しかし「Q」で彼を突き放したように接するのは、彼のしたことを咎める周りの目があるためだったのかもしれません。

シンジくんがしたことそのものはミサトの責任として、彼女は「Q」も含めた10数年を戦い続けましたが、そんな彼女がした失敗が、そんな自分自身の胸中をシンジくんに話さなかったことです。ミサトが「あなたの責任じゃない」と一言言えば「Q」の悲劇が起こることはなかった、というのがミサトにとっての「SIN」でした。

ミサト自身も、どこかに「チルドレン」を残した”大人”でした。

加持への正直になれない気持ちがそれです。本来的にはミサトについては加持への気持ちを完全に消化することで”大人”になるのだと思っていたのですが、まさかの加持の離脱により、その思いの行き先は息子に託されることになります。つまり、問題が先延ばしになったまま。ミサトは「大人みたいな子供」のままだったのです。

ゲンドウとミサト:大人になれない大人が”大人になる”

ミサトが息子に向き合うということが、加持への気持ちの整理に繋がるはずだったのですが、結果としてそれは10数年果たされないままシンエヴァの年を迎えます。

しかし、作中では自らのしたことへの責任をとるということを理由に、息子を避けていました。ただ実はこれ、完全に碇シンジの構図と一緒の”ごまかし”なのです。そして同じことが、碇ゲンドウにも起きていました。

ミサト、ゲンドウもまた、シンジと同じように「傷つきたくない」というのが人生の大きな目的でした。

ミサトは加持に本当に気持ちを伝えることができないまま別れを迎えています。そして、加持の死後、加持への気持ちの引き継ぎ先である息子に対して向き合うことができず、自分に対して”ごまかし”をしていました。ミサトにとってのそれは「人類を守る仕事がある」だとか「今更親の顔はできない」だとかの理由です。完全に言い訳ですね。

一方ゲンドウはユイの死を受け入れて傷つきたくなかった。ユイの死を実感してしまうシンジを「自分が幸せになる資格がない(とかなんとか)」など適当に理由をつけてごまかし、遠ざけます。

では、そんな二人はシンエヴァでどのように大人になったのか?
それは、それぞれ親である自分を受け入れることでした。

作品冒頭にヒントがあります。
大人になったトウジとアカリとの再会です。二人はシンジくんからしてみてもまぎれもない「大人」でした。彼らには子供がおり「親」になっていました。(ちなみにシンジが口を開かなかったのも、トウジたちがシンジという子供と異なる存在になってしまったからかもしれません。だからこそ、独身のケンスケにはトウジよりは心を開いたのかな、と。)

親と大人、というリンクが示されていることと関連し、
ミサトとゲンドウもまた、10年そこそこたって、親である自分を受け入れた結果、大人になったのかなと思います。

劇中劇で描いた、大人になった「チルドレン」


エヴァのキャラクターたちが通ってきたあれこれは、大人と言われる人たちをふくめた”チルドレン”もまた”大人”に至るまでの通過儀礼だったのでしょう。それは、シンジくんにとっては本当の自分の目的(傷つきたくない気持ち)に向き合い、心の壁を取り払うこと。ミサトとゲンドウにとってはさらに、親である自分を受け入れること。だったのかなと思いました。

振り返れば私も、少年・少女時代に手痛い経験をしたものでした。友人に行ったアドバイスがより彼・彼女を惨めにしたり、軽はずみに言った、行ったことが自分自身の疎外と共同体からの排除を招いたという経験も。そして、その経験を経て私たちは他人との距離感と接し方を学び、少しずつ社会に溶け込んでいきます。

ただし、その経験を思春期に全て履修し、世の想像する「大人」になれた人はどれだけいるでしょうか。20歳になって、成人し、「自分が大人になった」という実感を持てた人はいるのでしょうか

私はありませんでした。25歳になればアニメに出てくるような素敵なお姉さんになれると思ってもそんなことはなく、自分を庇護してくれる誰かを求めてしまうという気持ちさえあります。

中学時代に見た葛城ミサトは、頼りになる「大人」でしたが、30歳を手前にして見たミサトは「子供に対して接し方がわからない、恋心をもてあました一人の女性」でした。皮肉にも、この歳になってはじめて葛城ミサトの苦悩を知ることができたのです。

そしてこのように心のなかに「チルドレン」を抱えたまま大人になっている、というのは私だけではないように思うのです。
シンエヴァが劇中劇の体裁を取り、問題提起的に見せたのは、私たちに「君たちはチルドレンを抱えているか?」という呼びかけであるように感じました。

大枠の構成で問題提起であることを示し、中のストーリーで何を扱っているかを緻密に描写しています。いやあ、8年かかるわけです。(N回目)

次回予告

すいません、また長くなりましたが、劇中劇シンエヴァについてはこれで一通りまとめられたかなと思います。エヴァという「成長の物語」にこれで決着がついたという思いです。

次回は、レイ、アスカ、カヲル、マリなど、主人公を取り囲むキャラクターについて深堀してかきたいなと思ったのですが、このnoteが長くなりすぎて心がおれそうなので、いいねついたら書こうかなと。。。

いやあエヴァは、いいですね(IQ3)

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