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解けなかった問題の答えは

考えることがあってもそれを上手く言語化できないのがもどかしい。

本を読んで、こういう発想もあるのかと世の中の広さを知る。秀逸な表現をみて感動する。大好きな人達の紡ぐ音楽を聴いて心が震える。
その時々に感情を共有できる誰かと抱き合いながらその良さを語り明かしたいぜ〜と思う。

以前、現社の授業で人間の良さとは?という問いに対して考えることがあった。
周りのクラスメイトは特に深く悩む様子も見せずつらつらとワークシートに書き込んでいたが、私にはどうしても難しくて暫くの間ペンが止まっていた。

そこでふと思い出したのが、“共感”である。

共感というのはたんに他人の経験と自分が経験したことがある同じような気持ちを重ねるだけではなくて、「もし自分が経験していたら?」という仮定や想像も含む。所謂“感情移入”に近いところにあると私は解釈している。

本を読んで、音楽を聴いて、奏でて、感動を起こすのはオーバーに言えば作者が自分に憑依しているような感覚なのだと思う。

創作者本人が目の前にいようといまいと、直接的な関係があろうとなかろうと、その意図や思考を自己に投影できること。たとえそれが元々のものとぴったり合致していなくてもいい。寧ろ、その感じ方の幅があればあるほど作品として面白いなあと思う。

(以下の引用はとても腑に落ちた表現だったので載せておきます↓)


人間は、正本に対して、つねに異本をつくろうとする。Aのものを読んで、理解したとする。
その結果は決してAではなく、A'、つまり異本になっている。文学がおもしろいのはこの異本を許容しているからである。
六法全書を読んでも、小説のように面白くないのは、法律では異本を少ししか許さないためだ(法律でも、解釈をめぐって議論があるのは、異本がまったくないわけではないことを物語っている)。

外山滋比古「思考の整理学」


文字を、音符を、なぞる。

極限まで作者が憑依している(と思う)私はそこに“しっくり感”を覚える。それは楽しいし、わくわくするし、時に哀しくて切ない。

これができるのが、この感覚をわかるのが人間の良さなのだと思う。
作品や自然にカタルシスを感じるわけはこの“共感”なのかもしれないなという考えに落ち着いた高校3年生でした。


久しぶりのnote投稿に下書き2つを広げてみました📚

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