死んだ恋人に会いにいく 第２９話
本能
今の時期にしては来園者が少ないのは、今年の春、ここからそれほど遠くない場所に大規模なアミューズメントパークがオープンしたことが原因だろう。
こうして辺りを見回しても、視界に入るのはたった三組の親子連れだけだ。
ガス灯を模した意匠の街路灯も経費節減のためか、その半分は明かりではなく闇を灯している。
もっとも、ひと目で同世代ではないとわかる私たちが、こうして人の目を気にすることなく肩を並べて園内を闊歩できているのはそのお蔭でもあった。
そう広くない敷地にある、そう多くないアトラクションをあらかた乗り尽くすと、閉園時間の九時まであと三十分という頃合いになっていた。
「そろそろ帰ろうか？」
今日の彼女はセーラー服姿でこそなかったが、あまり遅い時間になるのはやはり避けたかった。
「あの、もうひとつだけいいですか？」
「いいよ。回るやつと落ちるやつじゃなければだけど」
あと裏返るやつも勘弁してほしい。
「回るけど、すごくゆっくりなので」
ペンキの少し剥げた座席に向かい合って腰を下ろすと、スチール製のゴンドラが弧を描きながら空へと昇っていく。
小振りなサイズの観覧車ではあったが、丘陵地に築かれた園のもっとも高い場所に据え付けられているだけあり、眺望に関しては県内でも屈指と評判で――と、うちの会社の資料にはそう書いてあった。
それが決して大げさでないことは、高度を増すごとにみるみる開けてゆくパノラマが如実に証明してくれていた。
周囲を湖に囲まれた立地ゆえに、地表の光と湖面の闇とが勢力を二分しているのがよくわかる。
少しだけ大げさにいえば、北の大地の有名な夜景スポットを彷彿とさせる絶景であった。
「きれい……」
「最後にとっておいて正解だったね」
いくら私とはいえ、その気になればもう少しくらい気の利いた台詞を用意することもできた。
だが、今ともにこの夜景を目の当たりにしている相手に対しては、変に飾った言葉を紡ぐ必要性を感じなかった。
数日ぶりに何も考えない時間を過ごすことができたのは、ゴンドラが夏の夜空の天辺まで上り切るまでの、ほんの短い間だけだった。
「かなたさん」
ワンピースの裾から見え隠れする白い膝小僧が、真っ直ぐこちらへと向けられる。
私の背で光り輝く街の灯りが、彼女の瞳の中心に映って見えた。
「ヘンなこと、聞いてもいいですか？」
彼女とはたった二日の付き合いではあったが、そのわずかな期間の経験則からあまり良い予感はしなかった。
「お姉さんのこと？」
正直に言えば、今はその話をする気分ではない。
「いえ、違います」
だとしても、彼女の面持ちを見た限り楽しい内容ではなさそうだった。
「十年くらい前の話なんですけど」
彼女の正確な年齢は未だ知るところではなかったが、恐らく就学前後のことになるのだろう。
「おねえちゃんが同級生の人たちと、テスト勉強をすることになって」
十年前と言われた時点でそんな予感はしていた。
「その日はお父さんとお母さんが急な用事で出掛けてしまって。まだ一人でお留守番をできるような歳じゃなかった私も、そこに連れていってもらったんです」
覚えている。
というか、思い出した。
彼女は当初、そのくらいの年齢の子特有の人見知りを遺憾なく発揮し、姉の背中に隠れては周囲の様子をチラチラと窺っていた。
徐々に体を露出する面積を増やしていった彼女は、五分もしなうちに完全な順応を果たしたのだった。
そのあとは確か、クラスの女子たちの玩具にされていたように記憶している。
「おねえちゃんのお友達の人たちが遊んでくれて、すごく楽しかったんです」
男子は男子でゲームを始めたりと、結局あまり勉強をした覚えはなかったが、確かにあの日はとても賑やかで楽しかった。
「でもそのあと私、急に熱が出ちゃって」
あの時の水守さんの焦りようといえば、いま思い出しても少し気の毒なくらいだった。
「そんなこと、昨日までは全部忘れてたのに。でも昨夜、かなたさんのお部屋に行った時に急に思い出して」
それであの時はあんなにも、キョロキョロと部屋の中を見ていたのか。
子どもの頃からずっと不思議だった。
観覧車はただ等速で円運動を繰り返しているというだけだというのに、なぜ行きよりも帰りのほうが、こんなにも速く感じられるのだろうか？
たちまちにして宇宙が遠ざかり、それと同じ勢いで地球が近づいてくる。
「かなたさんが三人乗りの自転車で、私とおねえちゃんを送ってくれましたよね」
そこは少し違っていた。
あれは三人乗りの自転車ではなく、一人乗りの自転車に無理をして三人乗ったというのが正しい。
「自転車をこぐかなたさんと、後ろに乗ったおねえちゃんの間に挟まれながら私、かなたさんの背中に抱きついていて」
ああ、そうだった。
茉千華ちゃんの体がすごく熱くて、でも、それがなんとなく気持ち良かった。
「それで好きになりました」
「……え？」
「名前も知らないおねえちゃんのお友達のことを、好きになったんです」
「それ、僕じゃないと思うよ」
ほとんどノータイムでそう返す。
「確かに昔、僕の家にみんなで集まって勉強をしたことはあったし、その時に小さな子がいたのも覚えてる。でも僕は、水守さんとその子を送っていってはいない」
嘘の中に真実を混ぜるこのやり方は、詐欺師が古来よりが使う常套手段だそうだ。
相手の記憶が曖昧であればまず見破られることはないと、テレビか雑誌か何かで見聞きしたことがあった。
「じゃあ……あの自転車の人って」
「渡辺じゃなかったかな？」
ちなみに渡辺という同級生は実在しないが、そのイメージモデルは知り合い随一の脳筋である藤田に担ってもらった。
「……ごめんなさい。私の勘違いだったみたいです」
彼女に嘘をついたことより、要らぬ謝罪をさせたことに胸が痛んだ。
係員によってドアが開放されたのと同時に、彼女のほうには目を向けずに観覧車をあとにする。
田舎の夜道ほどではないにせよ、閉園を間近に控えた園内は痛く淋しげだった。
本来であれば、手のひとつでも繋いでエスコートすべきところだが、先ほどの出来事の余韻も冷めやらぬ今、そんなことができるほどの度胸が私にはなかった。
「晩ごはん、どこかで食べて帰ろうか？」
周囲の視線に多少の不安はあるが、こんな慌ただしかった日にコンビニ飯では、彼女にも自分の胃袋にも申し訳が立たない。
「洋食と中華だったらどっちがいい？」
彼女からの返答はなかった。
まさか迷子になったということはないだろうが、それ以前にそもそも付いてきていない可能性がある。
急いでその安否を確認するため振り返ろうとした、その時だった。
体に先んじて首を後ろに向けたのと同時に、背中に小さくて温かなものがぶつかってくる。
驚いて両腕を掲げた私の胴回りに、その小さくて温かなものの腕が回され、そして力強く抱きつかれた。
「かなたさんにウソつかれました。やっぱりあの時の背中と同じです」
「……ごめん」
言い訳をさせてもらうと、別に過去の自分がした『らしくない行い』を隠したかったというわけではなかった。
ただ、現代社会を生きる大人としての防衛本能が自然と働いた結果、つきたくもない嘘をついてしまっただけだ。
「……でももし、あの時の人がかなたさんじゃなくても、私」
「茉千華ちゃんは勘違いをしているだけだよ」
しかし、それは彼女のせいではなかった。
腹をすかせて震えていた捨て猫に、己の欲求を満たすために餌を与えてしまったのは、紛うことなくこの私なのだから。
「私、かなたさんのことが好きです」
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