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死んだ恋人に会いにいく 第33話

第四章 河合七菜

七菜

 車通りのない道路を渡り切った少女は、ただの一度も振り返ることなく去っていった。
 あまりの淡白さに若干の寂しさを覚えたが、それが悪いことかといえばまったく以てそんなことはなく、むしろ心強くすらある。
 彼女とその母親が安寧を取り戻せるのは、そう遠くない日の出来事なのかもしれない。

 それはさておき、私にはこの町にいるうちにやらなければいけない宿題が、もうひとつだけ残っている。
 ポケットから取り出したスマホを顔の右に付けると、一度目の呼び出し音が終わる前に先方に繋がった。
「さっきはごめん」
『ううん。私のほうこそ本当にごめんなさい』
 彼女は先ほど『叶多には関係のない話』だと言っていた。
 そこから察するに、自身に近しい人間には話すことができず、かといって赤の他人には話せない内容なのだと予想できる。
 世間一般によく言われる話で、男は別れた相手との思い出を名前をつけて保存し、女は上書き保存するというものがある。
 私にとっての彼女という存在は、今以て元恋人として記憶されていたが、その一方で彼女にとっての私は、高校時代の短い期間だけ懇意にした相手といった程度なのかもしれない。
 相談相手に私を選んだのは、そういった属性がお誂え向きだったから。
 この想像のとおりだとしても、それでもやはり私にとって彼女はただの他人ではありえない。

「それで、話したいことって?」
『あれからもう一年以上経つけど、ずっと苦しくって』
 ちなみにこれは、私が彼女の話の前半部分を聞き逃したというわけではない。
 物事を順序立てて話す私とは逆に、彼女は昔から独特の文法で思っていることを音声に変換した。
 密かに『七菜構文』と呼称していたそれは、本題に入るまでに時間が掛かるのが最大の難点だった。
『誰かに話せば楽になるかもって思ってたけど、こっちにいる友達には話せるようなことじゃなくて』
 そんなものは近所の犬にでも喰わせておけばいい。
 思わずそう言いそうになるが、彼女にとってその近所の犬というのは、まさにこの私のことなのだ。
「いいよ。わかったよ。僕でよければ聞くよ。ただ、その前にちょっと車を動かしたいんだ。いま他人ひとの家に勝手に止めちゃってるから」
『あ、うん。実は私もさっきから外に出ててスピーカーで話してるけど、運転しながらだと恐いから、どこかに車を止め……え?』
「どうかし――」
 目と鼻の先を通り過ぎてゆくミニバンのドライバーと目が合う。
『……叶多、こっちに帰ってきてたんだね』
「ああ……うん。えっと、そのまま一キロくらい真っ直ぐ進んで、公民館のある交差点を右折して。そのあとの道順は覚えてる?」
 道順も何も、それ以降はひたすら道なりに進むだけなのだが。
『……いいの?』
「昨夜スマホを充電し損ねてバッテリーの残量があんまりないんだ」
 それは実際にそうで、つい先ほどバッテリーセーブモードに突入したところだった。
『おじさんとおばさんは?』
「北海道に旅行に行ってる」
『……わかった。ありがとう』

 閉業した酒屋で唯一営業を続けていた自販機で二人分の飲み物を入手すと、すでに見えなくなっていた彼女のあとに続く。
 よりにもよって私は、この町で一番会いたくなかった人物を自宅に招こうとしていた。
 自分一人が家に帰り、スマホを充電ケーブルに繋いでから電話を折り返せば、それで事が済むのは重々承知している。
 だが、私の然程でもない感度の直感は、『彼女はあてもなく車で彷徨いながら電話が掛かってくるのを待っていたのではないか』と告げていた。
 どこともわからない場所に止めた車内で、不安に打ち震えながらいる相手と込み入った話をするのは、私としてもどうにも気が滅入る。
 だからといって、どこで誰が見ているかもわからない田舎ばしょで、既婚の若い女性と膝を突き合わせて話をするわけにもいかない。
 瞬時に導き出した回答としては、最良に近かった――と思いたかった。
 それにこれは自分でも驚いていることなのだが、数時間前に彼女からの電話を受け、まるでシャツのボタンを掛け違えたようなおかしなやり取りをしているうちに、八年近くも抱き続けていた負の感情が、今この時にも少しずつ薄れていくのを感じていた。
 恐らくそれは、本来もっと早くに自然とそうなっているべきものだったはずなのだ。
 意固地で幼稚だった私が勝手に錠の掛かった箱に仕舞い込んでいたのは、それこそガラクタのような意地やプライドだった。
 鍵はすでにどこかに失くしてしまっていたが、ならば箱ごと捨ててしまえばいい。
 今ならばそれができるような、そんな予感もあった。

 私の到着を玄関の前で待っていた彼女は、その顔つきや体型こそ当時と変わってはいなかったが、髪型や服装が違うだけで随分と雰囲気が異なって見えた。
 ショートカットだった髪はウェーブの掛かったミディアムロングになっており、ひと目で天然素材とわかるアースカラーの服も、当時の彼女の趣味とは真逆ともいえるものだった。
「散らかってるけど」
 彼女は部屋に足を踏み入れた途端、たった一言「懐かしい」と言うとため息を漏らした。
 あの頃と比べて家具や小物の類は激減してはいたが、時にはバンドの練習をする私たちを見に、時には密かな逢瀬のために、二年弱で三桁回以上は通っていた場所なのだから、懐かしく思うのは至極当たり前だった。
「ソファーとかは全部片付けちゃったから、悪いけど」
 部屋の隅にあったクッションを彼女に手渡し、自分はベッドの縁に腰を下ろすと本題を切り出した。
「で、何があったの?」

「――それで、自分の中に仕舞い込んでおけばいいことだってわかってたけど、どうしても苦しくって」
 たっぷり三十分掛けて語られた彼女の話の内容は、私が想像していたものとは大きくかけ離れていた。
 しかしそれは、私が知ろうとして手を尽くしたにもかかわらず、結局わからず終いだった真相の一部に通じていた。
「水守さんからその電話をもらったのって、去年の春ぐらいなんだよね?」
「うん。三月の終わりか四月の始まりくらいだったと思う。それでその時、中学の時の卒業アルバムを貸して欲しいとも頼まれて」
 私と水守さんと芝川さん、それに高畑は同じ中学から高校に進学したのだが、七菜は隣の学区の中学の出身だった。
「水守さんは、なんで卒アルを貸してほしいって言ったか覚えてる?」
「えっと……。確か『顔を見たい人がいるから』って。それで私、同じクラスだったら連絡先もわかるよって言ったんだけど、彼女、『そこまでのことじゃないから』って」
 七菜はそう言って深くため息を吐いた。
「ところで七菜はさ、水守さんとは仲が良かったんだっけ?」
 私が知る限りではそんなふうではなかったし、そもそも彼女らは随分とタイプの異なる種類の人間だったように思う。
「学校に通ってた頃はそんなでもなかったけど。でも、私も彼女も大学を卒業してからこっちに戻ってきて、それで半年くらいだけど同じ職場にいたことがあったから」
 そういうことだったのか。
「でもごめんね。叶多には何の関係もないのに」
 私にしてみればバリバリに関係のある事柄なのだが、それは彼女の知るところではないし、知らせるべきことでもなかった。
「いいよ。それで七菜の荷物が少しでも軽くなったのなら」
「ごめんなさい……」
「だからもういいって。それに僕もまた七菜と話すことができて良かったって、そう思ってるから」
 まさか自分の口から、こんな台詞が出る日が来ようものとは、なんならこちらこそ彼女に礼を言いたいくらいだった。
「違くて……そうじゃなくて。叶多を裏切るようなことをして……本当にごめんなさい」
「え? そっちのごめん?」
 私は改めて七菜構文の奥深さを知った。



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