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死んだ恋人に会いにいく 第14話

困惑

 五階建てマンション最上階の角部屋に私の部屋はある。
 会社から支給される住宅手当だけでは家賃のすべてを賄えはしなかったが、田舎育ちゆえに静かな環境に高い付加価値を感じていた私にとって、この物件は理想的な住処の条件に適合していた。
 エレベーターホールでゴンドラが降りてくるのを待っている間にも、彼女はずっと私の腕にすがりつきながら、いかにも楽しげに口を動かし続けていた。
 互いの関係性を考えると幾分行き過ぎたスキンシップに思えたが、アルコールの作用がそうさせているだけであって、彼女をしてそれ以上の意味や理由があるわけではないだろう。

「嘘つき」
 リビングに足を踏み入れたのと同時に彼女はそう言うと、エアコンの操作をしていた私の肩を両手のひらでトンと突く。
「なにが?」
 謂れのない嘘つき呼ばわりをされた私は、カワセミのように口を尖らせ呪詛の言葉を吐く彼女にその理由を訊ねる。
「お部屋、片付きすぎ。本当はいるんでしょ、彼女」
 もし私が彼女持ちであったなら、女性を自分の部屋に招くことなどしない。
 今ここで、こうして室内の清廉さを咎められていること自体が、私が真の独り身であることの証左に他ならな――真の独り身ってなんだ?
「もしかして家政婦さんとか雇ってたりする?」
「そんな大層な身分じゃないし。僕って典型的なA型だから」
「え、叶多くんってA型なんだ? すっごく意外」
「それはどういう意味?」
 ちなみに二親はともにO型で、世間一般によく聞くO型らしい大らかな気質をしている。
 それよりも彼女はいま、私のことを下の名前で呼ばなかったか?
 別に『中原くん』でも『叶多くん』でも、好きなように呼んでくれるのは構わないのだが、そのあまりの唐突加減に少しだけ居心地が悪いような気がした。

 壁に掛けてある時計の短針が、今まさに9の字の上にのし掛かろうとしていた。
「芝川さん。明日の朝って何時頃にここを出るの?」
 水のペットボトルをソファーの後ろから彼女の首に充てがう。
「うんとね……お昼くらいかな? あ、お水ありがとう」
「じゃあ、もう少しだけ飲む? 発泡酒でよければ冷蔵庫に入ってるけど」
「もちろん飲む! あ、でもその前にお風呂貸してもらっていいかな? 私、お酒が入ると急に眠くなっちゃうから」
「いいよ。今お湯を張ってるところだから、先に荷物とか置いてきちゃえば?」
 そう言って彼女を案内したのは、普段は納戸として使用している六帖の部屋で、わずかばかり置かれていた荷物は仕事関係の段ボール箱が三箱とスーツケースが二つ、あとは来客用の布団セットが一組あるだけだった。
「僕も着替えてくるから。お風呂は玄関のすぐ隣の扉で、バスタオルは洗濯機の右側の棚にあるのを使って」
「うん、ありがとう!」

 自室で部屋着に着替えてからキッチンのパントリーに寄り、買い置きしてあったつまみの類をいくつか見繕う。
 そのついでに冷蔵庫から発泡酒を一本取り出すと、リビングのソファーに向かって正面から倒れ込む。
 うつ伏せの姿勢のままでプルタブを開け、ひょっとこかタコのように口を尖らせて缶の中身にありつこうとした。
 ……のだったが上手くいくはずもなく、誰もいないリビングで変顔を披露しただけの残念な結果に終わってしまう。
 結局は起き上がって発泡酒を煽るとスマホに構ってもらいつつ、彼女が風呂から出てくるのを大人しく待つことにした。

「……れ?」
 気がつくと右手に持っていたはずのスマホは床の上に転がっており、左手に握られていた発泡酒の缶も、もう少しで中身がこぼれてしまいそうなほどに傾いていた。
 師走を目前にしてすでに始まりかけていた年末進行の影響で、自覚無きまま疲れが溜まっていたのかもしれない。
 缶をテーブルの上に預けてからスマホを救出し、時間を確認するためにその画面を覗き込む。
 スタンバイ状態の真っ暗な画面はまるで鏡のようで、その隅に若草色のバスタオルが見えた気がした。
 反射的に振り返りそうになったのを、全身の筋肉を使いギリギリのところで踏みとどまる。
「……あがったの?」
 聞かなくてもわかることをあえて聞くのは愚者の行為だったが、私が考え得る限り、今この場面に於いてはこれが最適解であったように思う。
「うん、お先にごめんね。なにか着るもの貸してもらってもいい?」
「あ……クロゼットにスウェットのセットアップがあったと思う」
「それじゃそれ、借りるね」
「うん。僕もお風呂行ってくるよ」
 リビングから去ってゆくスリッパの音が聞こえなくなるのを待ちソファーから起き上がると、彼女が戻って来ぬうちに浴室へと急ぎ向かった。

 客人がいる今日に限って、普段よりも随分と長湯をしてしまった。
 風呂から出た私は発泡酒を手にリビングに戻ると、三人掛けソファーの一番右に座る彼女から一席離れた左の隅に腰を下ろす。
 空いた真ん中の席は私と彼女の関係性の距離であり、今から大切な話をするために必要な距離でもあった。
「芝川さん」
「あ! この発泡酒ってはじめて飲んだけどおいしいかも!」
 彼女が絶賛するそれは、缶のデザインが珍しかったのでなんとなしに買ったもので、私はまだ飲んだことがなかった。
 が、今はそんなことなどどうでもよかった。
「あのさ、芝川さん」
「ねえ叶多くん。私のことも下の名前で呼んでほしいな?」
 私のことももなにも、そちらが勝手に私のことを名前で呼び出しただけだろうに。
 が、今はそんなことなどどうでもよかった。
「芝川さん」
「咲希」
「……咲希さん」
「なに?」
「なんで僕のワイシャツ着てるの? 同じところにスウェットなかった?」

 風呂上がりの彼女が身に纏っていたのは、クロゼットでスウェットの横のハンガーに掛けてあった仕事用のワイシャツだった。
 一五〇センチメートル前後と身長の低い彼女が、一七七センチメートルの私のワイシャツを、まるでチュニックでも着るかのように膝丈で羽織っている。
 問題はその薄く若干透ける素材と、彼女が平均よりも少しだけふくよかな体型をしていたことにあった。
 首元の上二つのボタンが開放された胸元からは、独身男にとっては目の毒でしかない膨らみがチラチラと見え隠れしている。
 そのことからも、本来その部位を包み隠して然るべき装具が装備されていないことは瞭然であった。
 一瞬だけ視線が向いてしまった下半身も似たような有様で、綿とポリエステル混紡の生地の下に、濃色の小さな布が透けて見えている。
 以上の事柄のすべては私と彼女の関係性を鑑みた場合、不適切なこと極まりなかった。
「だってあのスウェット、全然かわいくなかったんだもん」
 スウェットに可愛いも可愛くないもないだろうに。
「試しに着てみたら? きっと似合うと思うよ」
「やだ」
 にべもなく言い返されてしまい、私は心のなかで『ギャフン』と呟くしかなかった。
「だからって、それはちょっと」
「え? カレシャツだよ? 男の子ってこういうの好きなんでしょ?」
 非常に残念なことに、私はそれに関して真正面から反論できるだけの材料と自信を持ち合わせていなかった。
 良くはないが良く、悪くはないが悪い。
 確固たる信念もなければ論客でもない私にとって、彼女を説き伏せその意味を理解してもらうことは叶わぬ夢であろう。
「……まあ、飲もっか」
「うんうん! カンパイしよ!」



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