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死んだ恋人に会いにいく 第28話

恐怖

 サマーナイトパスなる限定チケットを購入し、入場口のゲートをくぐり抜けたその途端、サンダル履きの少女は地面を強く蹴ると駆け出した。
 私も急ぎそのうしろ姿に続くのが正解だったのはわかっている。
 だが、彼女が向かった先にある大きな二つのループを前にして、とてもではないがそんな殊勝な気持ちになどなれなかった。
「待ち時間なしですって!」
 白いワンピースの裾をユラユラとはためかせた少女は、搭乗口へと続くスチール製のタラップを後ろ向きに上りながら、さも嬉しげに有り難くもない報告をしてくる。
 その一方で私はといえば、いつの間にか手のひらに掻いていた汗をシャツの裾で拭きながら、今にも消え入りそうな声で「うん……」と応じるのが精一杯であった。
 待ち時間がないということは即ち、心の準備をする時間がないということでもある。

 搭乗口で悪魔の笑みを浮かべ待ち構えていた係員により、先頭車両のそのまた先頭の座席に着座させられる。
 客は私と彼女の二人だけのようだが、この位置に乗せて車両の重量バランスに問題は生じないのだろうか?
 今までの人生でこの手のアトラクションを避け続けてきた私には、そのあたりの知識が欠如しており、ゆえに感じる恐怖もひとしおであった。

「それではいってらっしゃい!」
 二十代前半と思しき係員の女性の口から発せられたその言葉が、私には独裁者による粛清宣告のように聞こえていた。
 ガチャガチャと喧しい不協和音を立てながら、私と彼女だけを乗せた車両は青褐色の空へと向かい昇って行く。
 仰角四十度のちょうど真正面の、手を伸ばせば届くのではないかというような近距離に、左側が少しだけ欠けた月が出ているのが見えた。
「お月さまが綺麗ですね」
「ソウデスネ」
 こんなクリティカルなシーンにして尚、月を愛でることに心のリソースを割くことができるとは。
 さすがに常習者ともなると大したものだと感心する。
 やがて背もたれに感じていた加重が座面へと移ったと思うと、突如としてその時は訪れたのだった。

 夜空に浮かぶ楕円が消え去ったのとほぼ同時に、この世界の重要な摂理のひとつである重力が喪失する。
 ただしそれは、ほんの一瞬のことだった。
 次の瞬間には重力だか遠心力だかにより、逆に何倍にも増加した体重で腹膜が圧迫され、「ぎょっ!」とか「ぎゅっ!」とか、とにかく声と呼ぶにはあまりに不出来な音が喉から絞り出される。
 急な右カーブに差し掛かったところで視線も自然と右側へと流れ、その先の視界の片隅に満面の笑みを湛えた少女が映った。
(笑ってる? 嘘……だろ?)
 私が今この時ここにいるのは、様々な不幸により心を弱らせていた彼女のことを思ってのことだったのだが、どうやらそれは思い過ごしだったようだ。
 この状況で笑顔になれるのであれば、仮に一分後に地球が滅亡すると聞いても眉ひとつ動かすことのない、きっと彼女はそんな強靭な精神力を持つ存在なのだ。

 その後のことはよく覚えていない。
 次に気がついた時には、搭乗口の下りタラップの手すりを両手で掴んでいた。
 一秒でも早くこの死地から逃げ去り、助かりたい。
 生存本能に従い、震える足を懸命に交互に動かし続ける。
「大丈夫ですか?」
 あまり大丈夫ではなかった私は、コースターから十分な距離が取れたのを確認すると、いちばん近くにあったベンチの上に倒れ込んだ。
 五分の休憩を経てどうにか再起動リブートに成功した私は、開口一番「まだ乗るなら一人でお願いします」と懇願した。
 その言葉を額面通りに受け取った彼女は本当に、それも二回連続でタラップを上り下りしたのだ。
 ピンク色の唇をニカっと真横に大きく広げ、愉悦の極北を思わせる笑みを浮かべながら――。

「次はどれにします?」
「さっきの以外ならどれでも」
「じゃあ……あ! あれがいいです!」
 そう言って彼女が指を差した先にあったのは、狭い園内の一番奥にある屋内型アトラクションだった。
 平屋の瓦屋根の上に掲げられている『旅館 賽の河原』という名前からして、ホラーハウスの類であることは間違いない。
 子供の頃に学校の遠足でここに来た時は、もっとわかりやすくお化け屋敷然とした外観だった記憶があったので、近年になってリニューアルしたのだろう。
 入口のすぐ近くにある係員ブースに人の気配はなく、その代わりにぽつんと立て看板が置かれている。
 エンジング加工が施された木の板に、『係員不在につきご自由にお入りください』の文字が見て取れた。
 膝の高さまであるような長い暖簾をくぐると、すぐに板張りの長大な廊下が目の前に現れる。
「手、繋いでほしいです」
 了承するよりも早く、か細い指が私の右手親指をギュッと掴んだ。

 何十メートルもある廊下をゆっくりと進んでいると、なにやら向こう側からも人が歩いてくるのが見えた。
 暗さゆえにはっきりとはわからないが、どうやらあちらも二人連れのようだ。
 順路とは真逆になるので、途中でギブアップして入口に戻るカップルか何かだろうか。
 次第に互いの距離が縮まり、いよいよ姿がはっきりと見える場所まで来て、ついにその正体が判然とした。
 なんとそれは――私と彼女だった。
「鏡、ですね」
「鏡だね」
 ミラーに映る自分たちの姿を見せるという、たったそれだけのためにこんな大袈裟な廊下を作ったのだろうか?
 高さ二メートルはあろうかという大鏡の前に立ち止まったその時、ようやくにして設計者の意図を汲み取ることができた。
「ああ、なるほど」
「え? なんですきゃあああああああああ!」
 彼女は『なんですか』と『きゃあ』とをシームレスに接続した斬新な叫び声をあげると、全身をガクガクと震わせてその場にヘタれこんでしまう。
 当然その様子は鏡に映し出されているのだが、反転した平面世界の中にいる私と彼女は、保健室の片隅で埃を被る骨格模型の姿をしていた。
「これってCGなのかな?」
 自分の手足を動かすと鏡の中の骸骨もそれに連動し、やや遠慮がちに四肢を振ってくれるのがちょっとだけ楽しかった。

 床に座り込んでいた骸骨を抱き起こしてから、人気ひとけのない館内をさらに奥へ奥へと進む。
 先ほどまで手と手を繋いでいただけだった彼女は、今や餌の葉を求めてユーカリの枝に取り付くコアラの如く、半ば私の腕にぶら下がっていた。
 かつて出張を装い私のもと訪れた同級生とも、ちょうど今とまったく同じような密着具合で夜の住宅地を練り歩いたことがあった。
 あの時は酒に酔っていたとはいえ、腕に当たる二つの膨らみに自分が男性であることを意識させられたのだった。
 だが今の私の心境はといえば、おもちゃをねだる幼い娘を玩具売り場から引き剥がしている父親のそれでしかない。

 彼女はその後もすべての絶叫ポイントで、それはそれはとても律儀に悲鳴をあげ続けた。
 そのたびに腰を抜かして地面にへたれ込んだ彼女を私が抱き起こすという、一種のルーティーンがこの短時間で確立していた。
 入場から十分ほどの時間を経て、ようやく出口へとたどり着いた頃には、私も彼女もそれぞれ異なった理由で疲弊しきっていた。
「そんなに怖かった?」
「そんなに怖かったです。特に最初のところの鏡に映っていた男の人が……」
「え? 男の人? ガイコツじゃなくて?」
「え? ガイコツですか? 私が見たのは色黒の男の人がかなたさんの背中に……ごめんなさい。もう思い出したくないです」
 もしかしたら彼女は、私のことを怖がらせようとしているのだろうか?
 そう疑いながら覗き込んだ少女の顔は、まるでブルーハワイ味のかき氷を食べたあとの舌のように青ざめており、きつく抱きつかれた腕からは震えが伝わってくる。
「……茉千華ちゃん別のところに行こう。早急に」
「え? あ、待ってください!」



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