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死んだ恋人に会いにいく 第6話

着信

 満天の星々から地上に視線を戻した、ちょうどその時だった。
 ズボンのポケットでスマートフォンが低い音とともに震え出した。
 仕事の電話ではありませんようにと祈りながらスマホを手に取り、有機ELの画面に目を落とす。
「――っ」
 夜空の黒よりもわずかに劣る黒い背景に浮かび上がった『水守唯』という白い文字を目にした瞬間、喉の奥から声にならない声をあげてしまう。
 そのあり得ない名を表示するディスプレイを凝視したまま固まっていると、五回ほどのコールを経てスマホは沈黙した。
 死者から電話が掛かってくるなどという、そんな馬鹿げたことがあるはずもない。
 だとすれば彼女の親族からであろうが、いずれにせよ私に用事があったのだろう。
 着信履歴の画面を呼び出し、その一番上の番号をタップする。
 二回、三回と呼び出し音が続き、七回目のそれが鳴ったと同時に、留守番電話サービスへの接続を知らせるアナウンスが流れ、私は慌てて通話終了の表示をタッチした。
 折り返し掛け直した旨を残すべきだったのはわかっていたが、なぜだかその行為が躊躇われた。
 もし本当に大事な用件であればまた向こうから掛かってくるだろうから、その時に出ればいい。
 そう自分に言い聞かせると、再びポケットにスマホを仕舞い込む。

 駅のロータリーには客待ちのタクシーが一台だけ止まっていた。
 運転席の窓枠に片腕を乗せた老齢の男性ドライバーが、その奥に見える駅舎を出入りする極僅かな人々を眠たそうな目で追っている。
 本日に限れば、私は彼の数倍は車を走らせているはずだった。
 しかし、先ほどの出来事の刺激が強すぎたのか、ほんの数分前に感じていた肉体の疲労や眠気はどこかに吹き飛んでしまっていた。
 それでいて、今すぐにでもベッドに倒れ込みたいと感じているのは、きっと脳が疲れ切っていたからだろう。
 あと二〇キロ、もう三十分だけ運転をすればゆっくりと休むことができる。
 両手のひらで頬を叩いて気合を入れると、来たときよりも少しだけスピードを出し、再び山の向う側へと車を走らせた。

 周囲一帯を田畑に囲まれた耕作地帯のど真ん中に、私の実家はぽつんと一軒だけでさみしげに建っている。
 築四十余年の古い日本住宅で、平屋の母屋には四つも五つも部屋があったが、そのすべてが和室だった。
 お隣さんの家まで歩いて五分も掛かるので、回覧板を回すのは少し億劫ではあったが、その分近隣に気兼ねをしないで済んだ。
 バンドのまねごとをしていた高校時代には、母屋と同じ敷地内に建つ離れの自室が練習場所に選定されたのも、そういった立地の影響が強かった。

 もう夜も遅い時間だというのに、施錠どころか開け放たれたままの玄関をくぐる。
 ほどなくして、廊下の奥からトタトタとスリッパの音を立てながらやってきた母は、「おかえりなさい。ご飯は食べてきたの?」と、まるで学校から帰ってきた息子に言うかのように訊ねてくる。
「まだ食べてない。お父さんは?」
「奥で野球みてるよ」
 居間でビールを手に野球のナイトゲームを観ていた父は、私の顔を見ると同時に「おかえり叶多。お前も飲むか?」と、母と同様に不自然なほど自然に振る舞ってくる。
 両親がマイペースなのは今に始まったことではなかった。
 かつて私が十代も半ばだった頃には、少しだけ親に迷惑を掛けていた時期があった。
 その時ですら父と母は私を大きな声で叱るようなことは一度もせず、ただ『あまり人様に迷惑を掛けるようなことはするなよ』と、手首のスナップも禄に利かせず軽く釘を刺す程度だったほどだ。

 父と一緒に野球中継を観つつ、母が用意してくれた食事を口に運びながら、ほんの簡単に近況報告をしあう。
「仕事はどうだ?」
「楽しくやってるよ。お父さんとお母さんは?」
「仲良くやってるよ」
「それはなにより」
 これで互いに調子が狂うようなこともなかったし、親子仲も間違いなく良好であった。
 もし私が両親に注文をつけるところがあるとすれば――。
「お! 叶多ほら! これ入っただろ! お! ほら入った! ホームラン!」
 頭の上で腕をグルグルと回しながら心底嬉しそうにしている父を見ていたら、私が彼らに抱いている些細な不満など、壁のクロスのちょっとした汚れ以下の問題に思えた。
 まあ、実際そんな程度のものなのだが。

 父の贔屓球団の勝利を見届けると風呂へ向かう。
 青いタイル貼りの広い浴室は、マンションの狭いユニットバスに慣れた身としては、ちょっとした銭湯にでも来たような非日常感があった。
 肩まで湯に浸かり目を閉じると、今朝からの目まぐるしい出来事の数々が思い出される。
 若くして不幸な亡くなり方をした同級生は、思いの外に安らかな顔で常世の眠りに就いていた。
 彼女の母親は、娘の遺書に書かれていた『死んだ恋人』が誰だったのかを知りたがっていたようだが、少なくとも通夜に参列したメンバーの中には、その存在を知る人間はいなかった。
 仮にその遺書の内容が文字通りの意味だとすれば、彼女の想い人もそう遠くない時間軸のどこかで亡くなっているはずなのだが、少なくともこの地元でそういった話はなかったという。

「結婚はどうなってるの?」
 風呂からあがり居間に戻った途端だった。
「あのさお母さん。結婚って相手がいなければできないって知ってた?」
 我ながらウィットに乏しい返答をしてしまったと、口にしたあとになってすぐに後悔する。
「あんたの友達のあの金髪の子、なんていったっけ?」
藤田ふじた?」
「そうそう藤田君。あの子なんて二十歳で結婚して、今度ふたり目が生まれるそうよ」
 そんな極端な例を前面に出されても残念ながら何も響かないし、そもそも私はまだ結婚を焦るような年齢としではないはずだ。
 自分たちが若く結婚をして幸せだという成功体験を、息子の私にも押し付けようとしていることには何となく勘付いてはいたのだが、それは正直にいって迷惑な上に、酷く時代錯誤なことこの上ない。
「とにかく僕はまだ結婚なんて考えてないから。それじゃおやすみ」
 そう言い切ると同時に立ち上がる。
 背後で母がなにかを言っているのが聞こえたが、その内容を理解してしまう前に離れの自室へ避難することにした。

 玄関を出て徒歩十歩の場所にあるこの離れは、もともとは祖父が家業で使っていた作業場だったそうだ。
 祖父が鬼籍に入り廃業してから簡単なリノベーションを経て、私が大学進学でこの家を出るまでの間は、自室として再利用させてもらっていた。
 この町を去る時に大方の片付けは済ませていたので、今ではただ広いだけの空虚な空間に成り果てている。
 ベッドとテーブル、それにソファーだけがカラオケ店のパーティールームほどもある大部屋の隅っこに配置されており、窓と窓の間を吹き抜ける夜風を遮るものは何もない。
 すでにベッドには見覚えのない綺麗なシーツが展開済みであった。
 きっと母が昼間のうちに用意してくれたのだろう。
 部屋の入口に荷物を放り投げ、ベッドに真正面から倒れ込む。
「疲れた……」
 先ほどまでは脳みそだけだった疲労が、今は頭の天辺から足の爪先にまで広がっていた。
 せめてスマホの充電をしてから寝よう。
 そう思った時にはもう、意識は夢の世界へと足を踏み入――



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