誰かのためにいきること Ⅱ
だからね、この地球に生を受けて、思いっっっっっきり駆け抜けて、生きた命って
ものすごく沢山あるでしょう?事故とかだったり、病だったり。色々な理由で閉じるんだろうけどね。だけど
そのね、全てのいのちが、その「誰かのために生きる!」という、007ばりのミッションを全うするために全力を懸けていたんだとすれば
ふにおちると思うんだわ。残された人間が自分自身の執着や悲しみを乗っけなければね。乗っけるのは簡単。乗っけられた方はしんどいだろうけどさ。
だからね、私自身は生きているけれど、生を受けてミッションをクリアされて駆け抜けて行った、全ての命に敬意をもたなあかんなってふと思ったんよね。だって私はまだ、誰かのためにいきるという自分のしかるべきミッションを達成できてないねんから。
そして、そのプログラミングされたミッションは自分ではわからないんだなって。他人から見て、もしかしたらあの人は…てのはあるのかもしれないけど。自分自身でわかるとするとそれは思考が生み出した闇だから間違い。
わからないまま、なんでかわかんないけどやってる。それが、誰かのためにいきることの一つになってるんじゃないかなって。
自己犠牲って言う言葉が根を張っていた頃の自分には、こうした見方が全くなかったわけで、それは多分、ミッションをクリアできる気配すら無かったんやなと思うんよね。そういう意味ではやっぱり自己犠牲でもやってる人のが近いのかもしれない。
だけど、世の中の大半の人が今の世の中で、自己犠牲はおかしい、って気づいてる。だからジェンダーレスとか、多様化とかって言葉も歩いてる。ただし一人歩きしよるんよね。
だって本当にそれが必要な概念だったら強調しないでも浸透するやんか。だからね
誰かのためにいきることは、いつのまにか浸透していつのまにかミッション完了されてる。気付かないうちにね。
で、私は実は介護士なんですけど仕事柄高齢の方に出会うんですね。今までで出会った最高齢は102歳でしたけど、きんさんぎんさんもびっくりな記録を更新してるんですよ、今の時代はね。そんな御高齢の皆さんのなんていうか、ポリシーみたいなものに触れさせていただきながら、仕事してきたんですよね。
正直、とにかく真っ当に、誰かのためにいきてこられているかたが多くて。でも、駆け抜けてきたわけではなくて、ただ真っ直ぐに、ゆっくりと、ご自身の天命に沿って生きられているというか。そこに、ご自身という言葉を当てはめてしまうと語弊があるのかな。それぞれに与えられた役割をこなされているというか。
ミッション継続中なう
という感じです₀: *゚✲ฺ٩(ˊᗜˋ*)و ✲゚ฺ*:
だからね、皆さん本当に神々しいんです。ただただ年を重ねるだけで得られるものでは決してありません。そこに自我という拘りは全くないのですね。
あぁ本当に、人間て面白い。
もっと読んでみたい!という気持ちが 何かを必ず変えていきます。私の周りも、読んでくださった方も、その周りも(o^^o)