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善について。

今ふとこちらの記事を拝見させていただいて、
私は目から鱗が落ちる思いがしました。

要は
純度100%の善は存在しないのでは?
との問いかけ。

あぁ、それはそうだな、と。
そうかぁ、と。


都合の良いだけの人間になりたくない

という人がいる。

そういう人に限って
自分なりの善意を
自分の中に隠し持っていたりするの
かもしれない。

善とはなんだろう?

というなかで
私はまず第一に思うのは

それが善か悪かは
相手が決めるということだということ。

私は一応プロの介護士です。

例えば
ある日外で、倒れて困っている
老婦がいました。
私はかけよって事情を聞くと、
泥棒にあって、押された
と聞きました。

警察に事情を話してきてもらうと、
老婦は警察にこう話します

この人が私を突き飛ばして
泥棒したんです。

と。
こんなことはよくある話で

自分の行いを100%善意だと
相手に捉えてもらえることって
無いのだと思います。

これは私の中の善意を
認められなかったわけですが、
私はそんなことを求めていなかったので
なんとも思いません。
やれやれ、まためんどくさくなったな〜

と、ある意味で想定の範囲内なわけです。

要は、
善というものは
この世界で当たり前のように
点在しているけれど
それを善か偽善かを
いちいち考えたりはしないで
行うことが殆どです。

善は善として存在しているが
それは人の思考の範疇にはないということ。

逆にむしろ

思考とともに在る善意とは
偽善なのだと私は思う。

例えば
隣に一人暮らしの老婦が住んでいて
困っているような気を感じて
何が手伝えることがないか尋ねると
その人は大丈夫と話していて

だけど明らかに衛生的にも状況的にも
おかしいということが増えていき
何度か声をかけることが増えました。

仮に
私はプロの介護士なので、
こうした困りごとに介入することには
賃金が発生します。

が、今回は私個人の「善意」で関わることに
決めて、
もちろん賃金は取らないし、見返りも
求めません。

ですが、

こうして何か物事が動いていくと
必ずと言ってよいのが

最後うまくいかなくなる事が多いんです。

これを「善意の多用」と私は思います。

自ら「これは善意で行う」と決めて行うとき
そこに思考が必ず介入しますよね。

思考が介入することは
偽善だと先程載せましたが

まあ、要は「おせっかい」というのでしょうか。

自ら
「自分はプロだけど無償でやるから」
と決めてやるわけです。

でも、
相手にその事を伝えていたわけではないし、
何かしら見返りを求めたわけでも、
相手からの容認をもとめたわけでもないですよね?

なら、善意じゃないの?

と思われるかもしれません。

プロだけど無償でやる
という善意の押し売りは

確かに相手の為になればそれでいい
と始めたとしても
偽善にしかならないのです。


それが、最初に話した

「内在している自分なりの善」
ですね。

この場合
「自分はプロだけど無償でやる」
という意識を持った時点で
「自分の善意で行う」
という思考がはいるのです。

それが善か偽善かは
相手が決めること

最初から自分が善だと決めたものは
善にはならない

そんなこの世界の暗黙のルールが
あるのかもしれません。

逆に私なりの解釈ですが

介入させてもらってありがとう🙏

そう思える何かがきちんとあるなら、

それは相手との間に
善が生まれた証なのかもしれない
と私は思います。


こうしたことから
結論としていえるのは

善というものは
片側から片側に流れるものでは
無いということです。

相手と自分。
自分と相手。

その間に存在しているかどうかであり

だからこそ
双方の思考から「これは善だ」と
生み出されるものではないことが
わかると思います。


沢山の人のお役に立てる
自分になれるかどうかは、
そうした事を
ただ積み重ねていくしかないのだと
思うのでした。

もっと読んでみたい!という気持ちが 何かを必ず変えていきます。私の周りも、読んでくださった方も、その周りも(o^^o)