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生と死が分からない日本人

クライテリオンという冊子。
森田先生が載られたとの記事を拝見。
表紙のウィトゲンシュタインの文字に惹かれ
読みたい衝動に駆られて購入。
早速軽く中身をパラパラめくると
予想外に素敵な内容ばかりで驚いた。

その中でも
松島哲久教授の
「〈自己の死〉と向き合わなければ医療は腐敗する」
という記事は本当にその通りだと常々感じていたことを深掘りされていて興味深かった。

今回誌の特集自体が
「過剰医療の構造」
とのことだったので、そこからみえてくるもの自体が、自己の死と向き合うことができないことこそが、過剰医療に繋がっているという視点になり、とてもわかりやすかった。

そしてふと思うのは、
私達は生と死について、何も学べていないのではないか、だから向き合うことができるわけがないのではないか、ということだった。

個々として、大切な人の死や病気、また事故などを経験したり、また命の誕生を経験するなかで
知った「ような気」になってしまっているのではないか。

そもそもそうした、きちんとした根拠に基づかない部分に関して、おざなりになってしまうのは
世界中の中で、国としての宗教的な教えが日本人は少ないせいもあるだろう。
つまり世界の宗教的な教えは
生と死という命を後世に伝授するという役割を持っていると考えられる。

余談だが、極論として宗教の是非について、違うもの同士が対立してしまうことで、
そうした本質が見失われてしまっているようにも感じられるのではないだろうか。
だからこそ戦争は起きるのだと私は考える。

であるならば、本質に基づいた生と死について学ぶ方法はどうしたら得られるのだろうか。

私は唯一思い浮かぶとすれば、
それは大学やセミナー等で長時間能書を聞くことでは決して無く、
出産から育児、介護から死

というストーリーに、沢山触れていくことただそれしかないのではないだろうか。
それには日本という国の成り立ちからはじまり、そこから
幾千万回の分岐な交差を繰り返して、今私達がここにいるのだ、との認識からスタートすると私は思う。

私達はいつから、自己の保身と欲を満たすことだけに執着をし、
この壮大な世界観から目を背けるようになってしまったのだろうか。

本当の楽しみとは、幸福とは
生と死の先にしか存在し得ないのではないだろうか。

私達が日常的に模索している何かとは
本当はそこにあるのではないだろうか。

今まで沢山の人が、そこについて語り、論じ、提示されてきた。
それでも私達日本人の心に響くものは
今の世界の中にはっきりと告示されてはいないのだ。
それは生と死という学びに他ならないと私は思う。

あらゆる宗教団体が、こうしたものを提示したい、とされてきたのだろう。
その度に、何かズレてしまい、さまざまなことが起きてきたのだろう。
だけどきっと人間が最も知りたいこと。
それは生と死。
それに当たり前のように向き合うことができる時代は、いつくるのだろうか。

自己の死と向き合えるのは、生と死についてをきちんと学んだ人にしかなし得ないことなのだから。。

私はそれは、
もしかすると
誰かが教えるものではないのかもしれない
と少し思う。
先程、出産から育児、介護から死に触れると書いたけれども、それは
生と死を学ぶためにこれが必要です!と
言って得ることは無いのだと思う。

つまり自然の中で、個々の体験として、
得てして学ぶしか無いのかもしれない…と

ただ…
戦争や弾圧を経験された方は
その時から、ずっと生と死に
向き合われているのだと思う。

けれどもそこには
足りない要素がある。

それは
誕生などの、生への喜び。

戦争や弾圧からは、生への執着やいつくしみを学び
喜びは存在しない。

私達は生と死を学ぶために
戦争を経験しなければならないのだろうか?

それは違うと私は思う。生と死を全く知らない人間にしかなし得ないことだ、と。

私達のなかにはきっと
先祖から受け継いできたものがある。
その中に、きっと生と死の学びもある。

私達はそれらを思い出すことが本当はできるのではないだろうか。

その先に、新たな経験という学びが刻印されていくのかもしれない。


もっと読んでみたい!という気持ちが 何かを必ず変えていきます。私の周りも、読んでくださった方も、その周りも(o^^o)