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#ネタバレ 映画「きな子~見習い警察犬の物語~」

「きな子~見習い警察犬の物語~」
2010年作品
大和なでしことハリー・キャラハン
2012/2/14 14:44 by さくらんぼ


( 引用している他の作品も含め、私のレビューはすべて「ネタバレ」のつもりでお読みください。 )

近所に子犬を飼いだした家があって、私は姪と一緒に会いに行ったことがあります。子犬は玄関に繋がれていて、飼い主さんは不在でした。不安そうにお留守番する子犬と、私たちは初対面です。まずは、飼い犬の経験がある私が犬をなでました。そうしたら犬は、すぐに腹を見せて、仰向けになったのです。次に、興味があっても、まだ犬を飼ったことがなくて、少々怯えている姪がなでようとしたら、子犬はすぐにクルリと回転し、腹を下にした通常の姿勢に戻ったのです。

犬が腹を見せるのは一般に服従の姿勢(状況により、すべてが服従のサインであるとは限らないようです)と言われています。初対面の子犬は、一瞬で、私と姪という二人の人間を内面まで見抜き、脅威であると感じた?私には腹を見せたのだと思いました。逆に、姪は子犬から文字通り舐められたのかもしれません。

さて、映画に出てくる「きな子」は実在の犬だそうですが、他の物語同様に、映画になったらモチーフとして使われると理解すべきでしょう。主題を語るための道具になるのです。ここからは映画の中の「きな子」を語ります。

「きな子」とは、いったいどんな犬だったのでしょう。映画に出てくる二つの親子。ひとつは、素直な杏子の親子。もうひとつは、素直でない所長の親子です。「きな子」は表面的には杏子であり、内面的には新奈です。まるで羊の皮をかぶった狼の様な性格設定です。いや、いや「きな子」だけではなく、私が出会った、あの子犬も同じく、可愛い顔をしていても内面はしたたか者でした。あえてこの言葉を使わせてもらえば、それが獣の本質でしょう。

「きな子」は映画に描かれているとおり、ジャンプも出来るし、捜索もできるのです。ただ、気が向かないので本気にならないだけです。これが人間なら説教すれば良いのでしょうが、相手が犬では簡単にはできません。結局、杏子は・・・私と姪の事例に例えて話すのなら、姪から私への様な変身を遂げる必要があるのでしょう。

あるいはハリー・キャラハンと婦人警官のコンビ映画に例えれば、婦人警官はハリーの様な人間に成長する必要があったのと同じです。ハリーになれば、もう言葉を尽くさなくとも悪人(犬)からは舐められることはないのです。映画「きな子」は無謀にもハリー・キャラハンをめざす大和なでしこの、過酷で哀しき物語だったのかもしれません。でも、それは、本当に成長なのでしょうか。

★★★

追記 ( 親子の物語 ) 
2012/2/17 10:21 by さくらんぼ

>映画「きな子」は無謀にもハリー・キャラハンをめざす大和なでしこの、過酷で哀しき物語だったのかもしれません。

杏子の先輩である田代は、実家のうどん屋を継ぐために訓練士の夢をあきらめて帰郷しました。子供が家業を継ぐことは昔からよくある話で「感心な息子さんですねぇ」などと賞賛されることが多いのですが、それは、子供が家業を継ぐことを望んでおり、かつ高い視点で親からも客観的判断をし、それがベストとされる場合に限って許されるべきものだと思います。

家業存続を第一に考えると子供が犠牲になりかねないです。例外が無いとは言いませんが、その犠牲が美談になる時代は、もう終わりにしなければなりません。そればかりか、お釈迦様の話にたとえるのなら、子は自分の崇高な夢を追いかけるためならば、時には親を捨てても許されるものなのです。少なくとも今回の先輩の事例は、家業第一主義で子供が犠牲になっており、典型的な悲劇的事例です。そして問題は、なぜこのエピソードが挿入されているのかという事です。

目線を横に向けてみると、実は杏子の父にも問題があるのです。杏子は、子供の頃に救出された体験、父の職業、それらから訓練士になることを望む娘に育ちました。しかし、優秀な訓練士である父は、本当は杏子の性格では訓練士に向いていないことを知っていたはずです。しかし、客観的な視点が持てずに、杏子の希望を甘受してしまいました。父は訓練士の実態を、苦しい姿を、口がすっぱくなるほど娘に言って聞かせ、再考させる責任がありましたが、それを怠ったようです。

訓練所の所長の娘もそうですね。新奈はあきらかに所長の影響を受けて、素直でない子供に育ってしまいました。このことについて所長はなんとも思っていないみたいですが、もしハリー・キャラハンであれば、娘が自分の真似をし始めたら叱るでしょう。

そして、杏子と「きな子」も、ある意味、親子関係だと考えるべきです。杏子は警察犬の適性のない「きな子」を警察犬に育てるなどと言ってはいけませんでした。それは、子供の幸福を考えない親の行動と同じです。ある意味、子である「きな子」は親である杏子の犠牲になったのです。父から杏子へ、そして杏子から「きな子」へと、ここには負の連鎖が見てとれます。

もしかしたら、この映画は、親の影響を受けて人生の進路が変わってしまった人の不幸や、犬の不幸を、描いていたのかも知れません。一見すると、警察犬とその訓練士の感動物語、の体を取っていますが、目線を変えてみると、騙し絵の様に、もうひとつの物語が浮かび上がってくるのです。この映画、ひょっとしたら新奈の様に曲者だったのかも。


(  最後までお読みいただき、ありがとうございました。

更新されたときは「今週までのパレット」でお知らせします。)


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