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写真が下手⇒日々上達を実感。同じものを何回も撮らないとうまく撮れない⇒何回も撮るのが楽しい。何も問題ありませんでした。


タイトル長いですね~これどう表示されるんだろう(汗)
いいタイトルが思い浮かばなかったっていうか、タイトルが今回の全て、
以上です。って感じなんですが。

noteは基本的には僕は読む専門で使っていまして、ただ、最近ありがたい
ことに以前に書いた記事を読んでくださる方がいて、その頃と今では自分の
写真に対する意識がだいぶ変わってきているので、今の意識を残そうと
思いこの記事を書いています。


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写真が下手だな、と思っていましたし、今でもある意味では思って
います。ある意味ではってところが不遜ですが、その下手さ、ってものは
厳然としてあって、でもそれが全然自分にとってはいくらでもカバーできる
問題ないものであった、という。あくまで自分基準で、自分が好きな写真を
撮れているということがまず前提であります。

同じものを、っていうのは、例えば自分は下諏訪という街に住んでいて、
そこには諏訪湖という湖があって、ほぼ毎朝、そこに犬の散歩に行っては
写真を撮っています。
何回も通って、同じ場所から何回も撮って、ようやく自分でもいいな、
って思える写真が撮れるようになります。
そうなるまでにたくさんの時間がかかります。

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じゃあいい感じに撮れるようになったぞって、今度は少し別の場所から
諏訪湖を撮るとこれが全然ダメ。
時間帯が違うとダメ。天候でも季節でも条件変わればとたんにダメ。
それぞれの条件ごとにまた一から、何回も何回も繰り返し撮って、そして
ようやく自分でいいね、って写真が撮れるようになります。応用が利かない。


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他の被写体も同じで、花や木も、ここに咲いてるこの花、とか、この木、
とか、そして同じような明るさ、同じような季節、と撮影を重ねることで
撮れるようになって、条件違えばまた一からってことで撮り続けて
ようやく、です。

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以前はそれがもうちょっとどうにかならないかな~と。
せめて同じ被写体ならシチュエーション変わっても応用効くようにならない
かなぁ、とか思ってました。
自分が遠くの観光地とか出かけて撮らないのは結局これが理由かも。
足しげく通える範囲で何度も撮るから、結局生活の中のものしか撮らない。

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でも最近になってふと、それならそれでいいんじゃない?と。
プロだったり、人から依頼された写真なら、そのチャンスをものにして、
その機会で最大限結果を出さないといけないですが、よく考えたら自分は
プロじゃない(笑)、依頼されることもないので(笑)、全然そんな
シビアじゃない。
そもそもネットに上げる写真も平気で二カ月前のものだし、何度も撮り、
時間もかかって、膨大な石の中からごくわずかな玉を探して、それを
こうしてUPしている。
暮らしの中で片時もカメラを離さないから撮る機会も時間も山ほどあるし、
上がってきた写真は(自分にとっては厳選中の厳選ですが)、見た人には
普通に写真が上がっているね、であり、あれ?何にも問題なかった!!
ってことにようやく気付きました。

いやほんと、これ結構清々しい気づきで、全然そんな土俵に上がって
いないし上がる気すらないのに、それなのに無意識に、一般的な写真の
うまい人のイメージ、みたいな型で自分を評価してたんだな、と。
結局、無意識に、架空の、理想の誰々さんになりたかったんだろうなぁ。


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ネット見ればいろいろ書いてあります。数が大事。いやいや数じゃない。
こだわりが大事。いやいや素直が一番。撮って出しこそ写真。
いやいやレタッチや現像こそが作品への誠実な取り組み。
じっくり現場で設定して撮る。設定はなるべくいじらず瞬発力と反応で
撮る。
そういうの別にどうでもいいんだわ自分にとっては、って気づきました。


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自分が自分なりのやり方でやって、自分で上達を実感できてる限りは、
何を参考にしてもいいし、何を無視してもいいし、いいもわるいもそもそもないし。
不器用で、我流で、そこに上達が見込めて、そして何より楽しい。
それこそが自分が自由に写真を撮っている証だな、と思いました。

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