J.S.バッハの音楽における超越論性について

バッハの音楽はある意味で超越論的(神学的)で、ある意味で郵便的(グレン・グールド的)である。この2つの要素は相反するものではない。バッハの音楽を二元論で語ることはできない。何故か。彼の音楽は多声に散種されているからだ。つまり、彼の音楽の中にある超越論的なものと郵便的なものを切り離して考えることはできない。宗教と世俗の混在こそが、バッハの音楽の代名詞である(そしてそれは二つの意味でリミックス的な美でもある)。
カンタータの曲が器楽曲の転用であったりするのはまさに以上のような理由からである。マタイ受難曲のコラールもキリストを親友のように描く(磯山雅のバッハ論)。バッハの音楽においてハイアートとロウアートの峻別は無効化される(それをもっとラディカルに推し進めたのが村上隆である。彼はハイアートとロウブロウアートを逆転させた稀有なアーティストだ)。それは一致団結しないサッカーチームに似ている。バッハの書いた無数の音たちは「決して」まとまらない。同じ方向には進んでいかない。それらは多次元において散種される(バッハの音楽の現代性。例えばワーグナーの音楽と比べてみると、その差は一目瞭然である。ワーグナーの音楽は崇高な父としてのギリシャの神々へと向かう(否定神学的)。もちろん、少なからずそこからこぼれ落ちる音もあるのだが)。
しかし、そうであるにもかかわらず、この点こそが非常に重要なのだが、それらの音は同じ場(der Ort)に同居している(バッハの音楽に内在する矛盾)。そこには緩やかな連帯感がある(調性感)。intimateな同居。池辺晋一郎の言葉を借りればそこにはトレランスの空気が漂っている。
一致団結しないものたちが同じ場にいるとそれらは漂い、そのもの同士はある時は仲良くなるかもしれないし、ある時は反発しあうかもしれない。時にアクシデンタルな音たちの美しい邂逅。これはドビュッシーの音楽にも共通するものである。(全音音階の音であれば「どの」音の組み合わせでもある程度美しく聴こえる)。
しかし、ここで注意しなければいけないことがある。そこにはバッハ派というものは存在しない、ということだ。バッハの音楽はコンスタティヴにもパフォーマティブにもあらゆる方向に音を散種させていった。つまり、ベートーヴェン、ショパン、シューベルトなどの音楽の中にもバッハの音楽「のような」部分があるが、それは1つの要素としてのバッハである(ここにおいても場の理論が適用できる)。そのような意味でバッハは音楽の父ではない。音楽の父「的な」存在とは言えるかもしれないが。

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