雑記 10 / 自分のうつわ、うつわ論
自分の考え方のクセとして、まずは全体像を捉えて構造を把握し、その全体像をひとつのシステムとして理解し、認識を明らかにしていく、というパターンが多い。
元々そういう性向があるので、ヴィトゲンシュタインやカントの思考の枠組みは相性が良い、というか「なんでまたこんな風に考えてしまうのか」という構造が(当人たちの意図とは別ですが)、自分自身の体感に馴染ませやすい。
うつわの端をすっと撫でて全体の形を把握し、あるいは予想外の形や大きさがあることに驚きながら、自分が把握しやすい構造として認識を深めていくこと。全体像が見えた後に細部を分析していく。ディテールと全体像の間に齟齬が発生したら何かしらの修正を施して、うつわの全体像が綺麗に整うようにする。
そうして作り上げたうつわだけで対応できない物事があれば、新たなうつわを準備する。その全てが収まるような、大きく柔らかな器があれば良いのにとも思うけれども、大事な小さなものが片隅に追いやられて取り出せなくなってしまう可能性もある。だからそれぞれに適した器が必要で、それらを丁寧に並べ、関係させ、部屋の内部を作り上げていくようなやり方で思考を深めていく。
試しに書いてみたら、自分の思考のクセは「うつわ」という構造で説明しやすいタイプだな、と。
『日本現代うつわ論』では芸術や文化を対象に「うつわ」的に捉える、ということを試みているので、その分析を自分には向けていなかった。「頭の中」というように思考はこの身体/この頭という「うつわ」に収まっている。このうつわは、もしかしたら増築可能な建築物かもしれない。その中に部屋を作り、家具をおき、中に入る思考を整理していくこと。器、家具、部屋、家と大きくなる「うつわ」を頭の中に構築する試み。それぞれの部屋が別の建物ではなく、統一された同じ建築物に収まるように。そしてその建築物が美しいものでありますように。
ということで切り口は違えども『日本現代うつわ論』には毎回『うつわ的な見方』というテキストを寄せている。『3』が一番わかりやすく、『1』はちょっと観念的。
そしてこの本にテキストを寄せたり、インタビューを受けて頂いたり、ご協力いただいた皆さんそれぞれの「うつわ」の形が見えてくるはず。
結果として、読者自身の「うつわ」が見えてきてくれたらとても素敵。