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雑記 27 / ポケモンスリープ、はぐれ官僚化

半年ほど続けたポケモンスリープを10日ほど前にやめた。
睡眠時間を管理しながらポケモンの世話をする。一日三食を与えてポイントを稼ぐ。睡眠時間によってポケモンが元気になったり育ったりする。

元々の睡眠時間が6時間前後と短いので、僕のポケモンは毎日ぐったりしていた。睡眠時間と質に応じて点数も表示される。大体毎日70点未満で、視覚的に「あなたは不健康な生活をしています」と言われているような気分だった。点数を上げることはすなわち十分な睡眠時間を確保し、かつ規則正しく決められた時間通りに眠りについていることを意味する。
毎日睡眠に対する豆知識も表示され、睡眠へが危機感は煽られる。このままではいけない、長い目で見たら身体を壊すのではないかと思い、睡眠時間を少し増やして6時間半になるように生活リズムを変えた。
そもそも、どちらかといえば規則的な生活をしているので、朝は早めに起きて、三食はほぼ同じような時間で欠かさず、睡眠も読んでいる本のキリが余程悪くなければ決まった時間に床に入る。
睡眠管理アプリであるポケモンスリープを導入することによって、自分の生活の規則性が視覚化されながら強固なものになる感じは、なかなか心地よいものだった。規則正しいものになればなるほど、健康に近づく感じもあり、実際のところ身体の調子も良くなった気がしていた。

しかし、だんだんとポケモンスリープに生活を支配されているような感覚が強くなってきた。本来は生活リズムを管理するための補助アプリだから、管理主体は自分の方にあるはずだ。それがいつの間にかポケモンスリープで設定した就寝時間を気にして時計を眺めながら本を読むようになり、忙しさでポケモンに食事を与え忘れた時に罪悪感を覚え、一週間の睡眠時間やら何やらのトータルポイントが前週より良くなるように意識してしまうようになった。本来は生活の結果であったそのポイントが、生活の中で「より良い得点」として目的化してしまった。

ポケモンスリープに限らず、こうした睡眠管理アプリには少なからず管理社会の息吹があり、ビッグブラザー的な要素は含まれる。
悲しいかな、規則正しいリズムを好む自分は、そうした管理システムとは相性が良い。そのシステムの中でより良い結果を出すためのゲーム性に馴染みやすく、そのゲーム性に覆い隠された支配的なアルゴリズムに飼い慣らされてしまう。

本来であれば自己管理の補助ツールだ。自己を管理するのは他ならぬ自分自身であって、その主権を外部に投げ渡してはいけない。こうしたアプリには本質的にそうした支配的アルゴリズムが内包されているとはいえ、自分自身の意思さえ忘れなければ問題はない。これは自分への戒め。反省としてポケモンスリープを削除した。
半年間、寝食を共にしたピカチュウやリザードンやカメックスとの別れには一抹の寂しさがあり、そしてアプリを削除することはペットを捨てるかのような残酷さを感じてしまったけれども。

消してしまえばまぁ快適なもので、そもそも睡眠時間が若干短いだけで規則的な生活を送っていたから、別に管理アプリがなくても時間通りに寝る。むしろ残り時間を気にしながら読むストレスから解放されて、読書に集中できるようになり、朝もポケモンに食事を与える時間がなくなりニュースチェックも捗るようになった。

そういえばポケモンGOがリリースされた時も同じことを思って半年くらいでやめた。(もう八年前・・・)確かなめこ栽培が流行った時も同じだった。生活そのものをゲーム化しながら、そこから利益を生じさせるような手段は今後もより巧妙になっていくんだろうと思う

稲垣諭『絶滅へようこそ』において、村上春樹の小説の主人公及びレイモンド・チャンドラーの描く私立探偵フィリップ・マーロウは、個人として大きなシステムに抗いながら、あるいはそのようなシステムに対抗するために自分自身に対しては規律正しく、自己規則に従うある種の官僚的な生き方を選択している、と論じられている。
自分にもこのような性向が強くある。思春期の頃から村上春樹の小説に親しんで育っているから、それが物語によって育まれたのか、そもそも自分にそういう素質があったがために物語が響いたのかは定かではない。
けれどある種の官僚的な、自己規則に基づいた自己管理によって自分自身が形作られているという感覚はある。そこには社会構造への不信と反抗心だけではなく、いわゆる男性性への拒否感があり、同時に自身が抱える相対的な男性性の弱さへの抵抗でもある。
『絶滅へようこそ』からちゃんと引用して色々書こうと思ったけど長くなりすぎてしまった。このあと久しぶりに読み返そう。

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