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雑記 37 / 文才とは

毎日頂き女子りりちゃんの獄中日記を読んで打ちのめされている。
善悪やいろんな前提を超えて、自分の抱く価値観や常識を揺さぶられながら、心に響いてしまう。
端的に凄まじい。これこそ文学の仕事じゃないかと思わされる。
獄中日記の是非とか、頂き行為の善悪ついて論じる気はさらさらない。
けれども、あのテキストで語られること、文字に起こされた事実や感情の動き、そこで語られたり、あるいは語られなかったことによって示される社会通念との齟齬、言語の外側で示されている感情の厚みはとてつもないものだ。悪とはどこにあるのか、この人が背負ってしまったこと、この人の行為によって何かを背負わされてしまった人々、奪われた人々、奪った誰か、語られれば語られるほど、そこにある問題のスケールは巨大になり、同時に個人的な感情にフォーカスされていく。愛情の欠落と言ってしまえば簡単だけれども、奪うことと奪われること、求めることと失うことが異なるレイヤーで同時に錯綜する。その起こってしまった事実を獄中で一人向き合うことの重みに背筋が震える。仮にそこで書かれている感情のゆらぎが全てフィクションだとしたらとてつもない文才だし、物語という営みに伴う残酷さを引き受けていることにもなる。
あるいは全てが本当だとするならば、歪なイノセンスを抱えたままに、傷口を作ることでしか他者と関われない、残酷な業を背負っていることになる。
頂きマニュアルにも詳しくないし、データとしての生い立ちにも興味はないけれども、ただひたすら、獄中日記だけを読んで、書かれたテキストから示されるものを追って震わされてしまう。
こんな風にある種の消費コンテンツとしてしまうことにも残酷さが伴うことは確かだけれども(実際に被害者は存在しているわけで)、物語行為そのものが内包する残酷さへの自覚を促す意味でも凄いテキストだと感じる。

「文章を書ける」ということと「書くべき何かを持っている」人間の差は大きい。「文章力」や「文才」にはそのどちらの意味も含まれているかもしれない。しかし「持っている」ほどに強力な才能はない。凡人は才ではなく、技術を磨くしかない。あんなものに勝ち目はないけれども。今さらそんなデカダンスを生きてまで何かを得たり、すがったりはしないけれども。
「凄い文章を書く」という一点において少しだけ羨ましく思うけれども。

あまりにも残酷な在り方ゆえに「全ての魂が救済されますように」といった宗教的な祈りの必要性すらも理解できてしまう。
本当に「文才」ってなんなんだろう。

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