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雑記 39 / 素数ゼミと飽きること

今年は13年と17年の素数ゼミが221年ぶりに同時発生して、アメリカでは一兆匹が一気に地上に出てくるらしい。前回はトマス・ジェファソンがルイジアナを買収した年で、フランスではナポレオンが絶頂期で、ドイツではゲーテとシラーがブイブイ言わせてドイツロマン主義が盛り上がりつつあった頃だ。
「盛り上がりつつあった頃」って書いてしまったけれども、この目で見たわけではないから本当かどうか分からない。セミの出現周期と比べたらほんのわずかな僕の人生でも「20XX年頃はこれが流行ってました」と言われて、「いやそんなことなかっただろう」とか「だいぶ記憶が薄れてるけどそうだったかもしれない」「これは確かに流行っていたけれどめちゃくちゃ狭い界隈の話では」などということがすでに起きている。後の時代の人間がドイツロマン主義は云々あれがこれがと研究を重ねたおかげでレガシーとされているだけかもしれない。リアルタイムの人々よりも後世のオタクの方がアツくなってしまったコンテンツかもしれない。
17世代前と13世代前のセミたちはその真実を知っている。いや、アメリカにいたからドイツのことは知らないか。

13年周期のセミと17年周期のセミは交配もできるらしい。その子どもたちは14年とか15年とか16年の周期セミになる可能性もあるそうだ。でも結局、素数のセミが外敵や環境、そして他の周期セミからの影響が少ないから多く生き残る。素数によって担保される地中での確かな孤独が彼らの身を守る。
言い換えると今年はいわゆる隠キャの大パーティ、221年ぶりのお戯れなのかもしれない。221年に一度しか出会えない種族、交わると子孫の生命が脅かされる相手。スタークロストラヴァーズ、悪い星のもとに生まれた恋人たちとは、このセミのことでないか。

誰しもが人生で何かに没頭したり、飽きたりを繰り返している。
僕はどちらかと言えば熱しやすく冷めやすい若者だった。飽き性と言って良い。年齢を重ねたことで自分自身の取り扱い方もある程度理解し、同じことの繰り返しにならないよう工夫を重ねることで、何かをある程度長く続けることも可能になった。あるいは体感としての時の流れが早くなったから、年月として長く続けれられているだけで、主観的な時間感覚においては飽きるペースはそんなに変わらないのかもしれないけれども。

五月末くらいから日々習慣にしているいろんなことに一気に飽きてしまった。たとえば休日の筋トレだったり、哲学書中心の読書だったり、三年近く続けているDuolingoだったり、Audibleでのシャドーイングだったり。どれか一つに飽きて新しいことを始める、というのはよくあるけれども、これだけ一斉に飽きるのも珍しい。このnoteの毎日更新もちょっとしんどくなってきた。ちょうど素数ゼミの大量発生みたいな形で周期があってしまっているんだろう。

こういう時には大きなミスをしやすいから気をつけないといけない。
そして、同時に自分自身に対する「何かやれ、抜本的に自分を変えるための何かを」というメッセージでもあるはずだ。宅録でもやったら良いのかな。最近あんまりギターも弾けてないし。これだけ練習してないと手癖も弱まっていてちょうど良いかもしれない。



などと焦燥感に駆られながら書き記したあとに、今日は『大槻香奈の芸術お茶会』にまた呼んでいただいてのお勉強会でした。
なんだか宿題をいっぱいもらってしまった感じで、ぼんやりしてる場合じゃないぞってやる気が出て終わりました。勉強は楽しい。

そのことは明日またちゃんと書きます。

これを書いている時点ではまだ公開されてませんがアーカイブはこちら。

今日の反省はまた明日に。

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