シン・俳句レッスン49
セイタカアワジソウ。今の季節もっとも目立つ花だけど俳句にはしにくいのは長い名前のせいだろう?そう思ったら面白い記事を発見した。「虚構新聞」だけど。
どうなんだろう。無理に背高泡立草を使ったほうがいいのか?泡立草がいいのか?でも、アワダチソウと言うのを初めて知った。アワジソウかと思っていた。
咲くはいらないか。過ぎるがいいか?走っている車窓のイメージ。
句跨り。「線路地に セイタカアワダ チソウ過ぐ」
芭蕉の「時雨」考
テキスト、上野洋三『芭蕉の表現』から。
しぐれは、十月朔日(1日)より降るように詠め(旧暦)。しぐれは降ったり止んだり定めがなく、あわれふかきを詠むがいい。必ず嵐を伴うものなれば風にも注意を払う必要がある。流れゆく雲の移り変わりを見て感興を起こすものなり、木の葉しぐれは木の葉が散ること、松しぐれは松の葉が音を立てて吹き荒ぶことだという本意を持つ。
「作りなす」は作り直す。人為的な行為と「庭をいさむる」は自然の行為が対になってしぐれているという意味。「いさむ」は「勇」の意味もあるが、ここでは「諫む」の方の意味。「庭興即時」という漢詩の詞書が句を引き締めている。
『猿蓑』の巻頭を飾る一句。またタイトルにもなった重要な句。
「はつしぐれ」は秋のしぐれであり、草木の色が変わり、紅葉を染めるというので、冬のしぐれとは違う。また月を合わせると冬のしぐれになる。それは歌語として和歌に用いられたものだった。
「はつしぐれ」の「初」は、「初時雨」「初雪」「初霜」など見る世界を一変してしまう様子だと「西行」はいい、それは起きていないことではなく、すでに起きていることなのだと。また西行に歌に、
もあり芭蕉の西行に対する敬愛が伺われる。「小」に対する場所の愛着も。猿には断腸の思いを連想させる(猿の叫び)。だがここでは猿は叫びはしないが、寒さに震えている。そして小蓑を与えたくなったのだ。
「時雨」は通り過ぎる一時的な雨であり、旧里の道すぐらという詞書の通り一瞥しての俳句なのである。旧解釈で見られたのは木株が時間と共に黒ずんでいったというものだが、このあらかぶは木株ではなく、田の稲の切り株なのだ。それが切られてうちから黒ずんでいく。時雨のあとにだけに余計に目についたということであるという。単純な言葉の中に奥深い世界が拡がっている。
戦後の俳句論
川名大『昭和俳句 新詩精神(エスプリ・ヌーボー)の水脈』から。
富澤赤黄男
「グリンプス」って何だ?「一瞥」という意味だった。「一瞥するわが現代俳句」と書けばいいのに。まったく難解語を使う批評家は好かん。
一字空けで破調、上句は字余り。「アノニム」と読ませるのかな?「むめい」のほうが収まりがいいよな。ただこれが作られたのが昭和二十年代後半というから、今に繋がる句かもしれない。
富澤赤黄男は〈目〉の喪失という近代人の苦い栄光と挫折を詠んだとされる。精神性が戦争協力ということに繋がったことを言っているのか?精神性が純粋孤独というものに耐えられずに神を必要とするということなのか?肥大化する自意識は今のネット社会のようだけどどうなんだろう。存在が、ただ無の関係において存在しているだけの抽象の世界という。
シュールレアリスムの蝙蝠傘とミシンの出会いのミシンが無く、蝙蝠傘一つだけが倒れている状態。近代社会から現代社会への過渡期に横たわる蝙蝠傘というイロニーだという。ニヒリズム(虚無主義)という、ここから現代俳句は始まったとする。
永田耕衣
永田耕衣は、富澤赤黄男のニヒリズムを接ぎ木して、さらにニヒリズムを重ねて、逆にポジティブに花を咲かせる。「即物主義」と「即心主義」のかけあわせて我と汝という同化が起こっているという。それまで「以心伝心」で伝わっていたものが伝わらなくなって、自意識の肥大化が行われるのだがその心を自然に開いていく感じか?それは花鳥諷詠に学ぶということではないという。「シン(新)・花鳥諷詠」だというのだが、よくわからない。目指すところはこのへんなのか?
それは金子兜太からの前衛俳句は戦後(戦争の)俳句からだと思うのだが、新興俳句と戦後俳句には断絶があり、それが虚子の日本俳句作家協会結成を代表する戦争協力の翼賛体制(日本文学報国会)であった。
その反省から桑原武夫『第二芸術論』が出てきたのだが、それは俳句だけではなく詩人もそうだし、小説家でも戦争協力者は出たのだから何も俳句だけではない。そして現実的に新興俳句では白泉のような作家もいたので、それは桑原武夫の認識不足なのだろう。しかしながら、俳壇の世界ではそういう流れがあったことは事実だし、それを顧みる必要があったのだ。
そして中村草田男の石田波郷や加藤楸邨らの戦争協力について批判があったのだが、同じ人間探求派同士なのにこのへんがよくわからない。それで金子兜太が高慢ちきな中村草田男よりは加藤楸邨の方がいいと弟子になったという。そして金子兜太の造形俳句が出てくるのだ。
ただ造形俳句はそれほど新しいことではなくて、精神性やら象徴性ということでそれが前衛俳句とはどうなん?と思うのだ。前衛はやっぱ表現形式にも新しさが必要なので、その点では金子兜太の俳句はそれほどでもなかった。ただ反権力的な見方がされたので前衛俳句と言われたのかもしれない。
川名大は高柳重信の陶酔を受けているから、やはり金子兜太の俳句には厳しい見方をしていると思うのだ。ただ表現論も行き過ぎると無味乾燥の観念だけの理論になるしかなく、その例としてニヒリズムの極地として富澤赤黄男を上げたのだと思う。そこに金子兜太の大衆路線的な俳句運動があるのだが、それは新俳句というような、今では伊藤園の「おーい、お茶」俳句コンテストとなっている。そういうところが権威化を否定しながら別の権威になってしまった金子兜太の批判もあると思うのだが。
そしてもっと俳句をわかりやすく、権威的な内輪でないものを作ろうとする前衛俳句からの流れとして坪内稔典らの活動があるのだ。このへんはわかりやすいと思うのだが、川名大は否定的でもっと観念を突き詰めていかねばならないというような。整理すると、兜太への疑問と坪内稔典の否定ということだろうか?川名大の論理はある意味鋭いのだが、理念すぎて息苦しさも感じてくるのは事実だった。俳句が俳諧という諧謔性があるのは坪内稔典のほうにあると思うのだ。川名大の諧謔性は?それで永田耕衣なんだろうがいまいち良さがわからない。
現代俳句50年の俳句論集・ベスト10は面白い。こういうベスト10というのは読者の人気投票みたいな気もするが、重要な俳句論は上げていると思う。
金子兜太と中村草田男
角谷昌子『金子兜太 「存在者」の透徹』から。金子兜太は中村草田男の高飛車な物言いが気に入らなく中村草田男を批判した。そして中村草田男が戦後批判した加藤楸邨の弟子になるのだが、けっこうこの二人は似ているのではないかと俳句を並べて論じている。
草田男は茂吉の歌を読み、素直に詠めばいいのだと俳句の開眼した。兜太は茂吉の「実相観入」や心象写生の影響を受けた。
「火の山」は大島で、火山だった富士に対して、創作意欲を増す自分自身を示しているのか?それに倣うかのように大島に行った兜太の句。「吾若し春星空に帆綱鳴る」はそんな青春時代を懐かしむ句か?
「なめくじり」はナメクジの古い言い方か?蝸牛には花で、ナメクジは花なき椿が似合うということか?兜太の句は仏教語でナメクジの哀れさを読んでいる。鶏を配して今にも捕食されるかのよう。
草田男は妻恋の句。啄木の「われ泣きぬれて蟹とたわむる」にちなむ。兜太はトラック島にいながら草田男の句に思いを寄せる。この蟹はやがて「原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ」に繋がっていくという。
草田男の句は晩婚で突然子供を授かったことに対しての戸惑いだという。兜太は戦地での人為である戦争と自然の対比。「急ぎ且つ首あぐる蜥蜴吾も独り」自分の孤独を蜥蜴に重ねた。
草田男の抒情性に対し、兜太は即物的な詠み方に草田男の句からの脱皮が見られるという。素材主義に傾いた社会性俳句からの脱皮が「造形俳句」だという。その造形俳句から前衛俳句へ。
烏賊(異化)作用か?社会参加などは大江健三郎に近いのかもしれない。その思想にはサルトルの実存主義があるような。この頃、草田男との往復書簡で「季語に依らずに最短定形詩としての俳句を目指す」これは「新興俳句」と同じだった。しかし後には季語に依っていく俳句も作っていた。自分たちを前衛派と呼んで、草田男らのことを守旧派と呼んだ。それに対して草田男は守胎派と言う。あくまでも俳句は季題に依るとの主張で真っ向対立する。「人間探求派」は季語と情、「造形俳句」は現代風物と情。情は「心」だろうか?この頃兜太の代表作「造影俳句」が目白押し。
兜太は昭和四十年頃から源郷の思いを強くしていく。正岡子規の歌「混沌が二つに分かれ天となり土となるその土がたわれは」から土着の俳句。一茶に傾倒していくのもこの頃か?ただ兜太には元々郷土愛的なものはあった。
そこからアニミズムの世界の憧憬。
草田男との区別がつかないな。その兜太の集大成が
おおかみに蛍が一つ付いていた
晩年は草田男の再評価。
しかし兜太は俗に身を起き、草田男は聖に軸足を置くという。一茶と芭蕉の違いか?革新と伝統を併せ持った兜太の新しさという。農本主義ということなのか?単純な思考のようにも思える。その単純さが魅力でもあるのか?
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