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シン・俳句レッスン6

今日の一句

風鈴。夏の季語そのものだった。古くは魔除けとして使われたのだから、そのイメージだな。

風鈴や深海の夢ポセイドン

ポセイドンでは大音響だよな。セイレーンか?セイレーンだったら深海ではない。

風鈴やアイフォンで消すセイレーン

アイフォンはイヤフォンをして音楽を流してます。アイフォン持ってないけど、中七に収まりが良かったので。


川野大『現代俳句 下』は、金子兜太から。

金子兜太

金子兜太は加藤楸邨の弟子といことで人間探求派なんだな。前衛俳句の人だから新興俳句系だと思っていたがその底流にあるのは伝統俳句の有季定型なのかもしれない。ただ「写生」を「造型」という自覚的な意識の中で詠む俳句なので、虚子が排除した社会性や思想性を排除しない。

暗闇の下山くちびるをぶ厚くし
銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく
彎曲し火傷し爆心地のマラソン
果樹園がシャツ一枚の俺の孤島
わが湖(うみ)あり日陰真暗な虎があり
どれも口美し晩夏のジャズ一団
霧の村石を投(ほお)らば父母散らん
人体冷えて東北白い花盛り
涙なし蝶かんかんと触れ合いて
暗黒や関東平野に火事一つ
梅咲いて庭中に青鮫が来ている

「暗闇の」は抽象的だが意識の中ということか?それと下の句「くちびるをぶ厚くし」の対比。

事務職の仕事は蛍光灯の室内。社会批評が入っているのか?「造型俳句」の理論に基づいて出来た記念すべき一句だという。「造型俳句」の外に創る自分がいるという。

「湾曲し」も「造型俳句」だという。上五中七は原爆の凄まじさを述べたあとに、現在のマラソンの映像に切り替えていく。

そうか、「風鈴や」の句も「造型俳句」で作ってみよう

風鈴や熱波に割れて異常気象

下五が決まらない。白昼夢か。

風鈴や熱波に割れて白昼夢

「シャツ一枚」で「孤島」を守る男。イメージの俳句か?

「わが湖」と「日陰真暗な虎」の並列させるイメージ。

「口美し」「口はし」と読むという。句跨りだった。

どれもくち はしばんかのじゃ ずいちだん

「霧の村」は秩父の谷あいの村か。原故郷の姿と都会に散って行く自分の姿のイメージだという。なかなか難しい。

「東北」の句は、自分の身体性の感覚が「冷えて」ということらしいのだ。自分の身体感覚しか信じない信念だといいう。よくわからんが、観念と身体性か。「白い花」は観念か?

「涙なし」は戦後の戦時の体験だそうだ。先の身体性ということで言えばそういう自己と「蝶」が「かんかんと」触れ合うという二物衝動の句だった。理解できるな。このへんが金子兜太の人気の秘密か。自己の身体性と自然の観察。先程の風鈴の句だと。

暑苦し風鈴割れて白日夢

風鈴の音が欲しいか。

暑苦しりんりんと風鈴割れて

句跨りのテクニック。

あつくるし りんりんとふう りんわれて

「暗闇や」の句も上五で自己の感情を入れて自然の情景というパターン。火事が一つの遠景となって関東平野の広さの中にある。

「梅咲いて」は自然の景色からで「青鮫」が自己の感情なのだろうか。これは難解句だ。金子兜太は自己の感情を一句のコトバに決めて残りを自然観察というような。わかりやすいか?

渡邊白泉

川野大『渡邊白泉の100句を読む』に戻って、今日も10句。俳句線の戦争俳句の真髄。

かげふかき羊にあへり岬ゆきて
三宅坂黄套わが背より降車
春の雪春の青山の上に降る
九段坂田園の婆汗垂り来
駈ける蹴る踏む跨ぐ跳ぶ転ぶ
遠き遠き近き近き遠き遠き車輪
銃後という不思議な町を丘で見た
遠い馬僕見てないた僕も泣いた
海坊主綿屋の奥に立つてゐた
赤く青く黄いろく黒く戦死せり

「人力車その他」の詞書にある六句の一つ。「羊」といえば北海道かなと思ってしまう。岬は「岬めぐり」か。城ヶ島じゃないことは確かだと思う。あと村上春樹『羊をめぐる冒険』も連想してしまう。羊は影だったよね。羊を巡るエピソードが面白い。

この白泉の羊は比喩だそうだ。岬の明るい陽光を受けての影だという。羊雲かもしれない。だいたい観念でイメージ出来るものもコトバで書けるのだと知らないでよく作家がやっていられるな。

白泉も意味的なものはよくわからないが、読めるからイメージは掴める。霜のあと良く晴れたから元気よく門を潜ったのだろう。小学校とか修学旅行とかだそうだ。ただこの句から暗い影を読み取れるという。それはこの作者に後に戦争の影が忍び寄るからという。単独句でないんだな。

これも「通勤景観」の三句目。「黄套」換喩でカーキー色の軍服を着た軍人だという。「三宅坂」は陸軍の参謀本部があった場所だという。ひしひしよ忍び寄る戦争の影。不安や恐れを「黄套」で示した心理俳句の傑作だという。

「春の雪」は「春季雑詠」の中の一句。青山は地名ではなく緑の山だという。薄緑の山と白の対照が絵画的。『青山』という句集が「京大俳句弾圧事件」で他の句集に差し替えられたという。

「九段坂」は「靖国神社」を暗喩している。高山秋窓のと快適な俳句が「青のリアリズム」(モダンな都会俳句)で、白泉は社会性として「赤のリアリズム」(戦争の足音のする俳句)を描いたとする。

次は動詞だけで組み立てていながら社会の様子を描写した俳句である。通常俳句は一つの動詞とか言われるが、そんなセオリー無視だった。白泉その人の句だな。これは傑作。

実験的な作品は前と同じだが。有季定型派から戦争俳句は前線にいるあるものが詠んで意味あるものとされて、新興無季俳句は「戦火想望俳句」として一段劣るものと考えられていた。それに真っ向対決姿勢を示したのが白泉であった。これは「車輪」の三句の一つ。

車輪六個静かなる地に轟けり
遠き遠き近き近き遠き遠き車輪
車輪黒し触れて冷たし押して重し

「車輪」は兵隊を輸送する軍用列車である。別の句に

兵隊が征くまつ黒い汽車に乗り

がある。戦争文学は何も体験者だけが書くものでもないのだ。

「銃後」は「前線」と対置されるコトバだが、国内での戦争の拡大を見事に捉えて戦争俳句として記憶された。

白泉は馬の句を様々詠んでいた。この馬は日中戦争で駆り出される軍馬だという。

昭和13年の作で翌年に白泉を決定づける

戦争が廊下の奥に立つてゐた

が詠まれるのである。

「支那事変郡作──篠原鳳作の霊に捧ぐ──」とある中の一句。この頃の白泉の戦争俳句はドキュメンタリーのように読めるが当時は前線で活躍する兵士に申し訳ないとかリアリティに欠けるとか(加藤楸邨や中村草田男の人間探求派から)批判されたのである。

何を詠むか

岸本尚毅『俳句のギモンに答えます』から「何を詠むか」。まあ、何でも詠めばいいと思うが、これが結構難しい。毎日日記のように詠むなら歳時記で季語を探しながらも面白いかもしれない。

あと投稿では虚子の作句はあまり通用しない気がする。積極的に俳句に対する常識を崩して行ったほうが面白い。選者による好みもあるし、中には自分の教え子ばかり取る選者もいるという。そんな世界だ。

岸本尚毅は伝統俳句の人だから虚子の教えを守れというのだが。

初めまして現代川柳

俳句が嫌になったら川柳に行けばいい。現代川柳も面白い。

妖精は酢豚に似ている絶対に似ている  石田柊馬
記憶にない少年が不意にくる  石部明
つぎつぎに女が消える一揆の村  海地大破
バスも私も消える肉屋の鏡  加藤久子
正確に立つと私は曲がっている  佐藤みさ子
埋没される有刺鉄線の呻吟のところどころ  墨作二郎
旧姓で呼ぶと振り向くキタキツネ  浪越靖政
中年のお知らせですと葉書くる  丸山進
揶揄らしい揶揄一輪 頭の夜明け  渡部可奈子
還暦の男に初潮小豆めし  渡辺隆夫

「妖精は」は自由過ぎる。

「記憶にない少年」も不意に来るのが川柳。理由などない。
「つぎつぎに女が消える」はもっとも短いミステリーか?今まで上げた句はほとんどミステリーだった。

現代川柳はミステリーなのか、ほとんど消えるか不意に現れるか。

アフォリズムもある。

長律(字余り)作品もある。

童話もある。

ちょっと川柳っぽい。

川柳から短歌に行った人っぽい。

作中主体も関係ないという。なんでもありが川柳の世界。

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