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『人間ぎらい』は女嫌いの喜劇か

『人間ぎらい』モリエール , 鈴木豊 (翻訳)

潔癖で、世の不正を憎み、いっさいの妥協を許さない青年アルセストが、美しい浮気女の未亡人セリメーヌにほれてしまう。友人のフィラントの忠告もどこへやら、「理性は恋を支配するものではない」と、にべもなく、それをはねつける。だが、結局、この恋はみのらない……モリエールの代表喜劇のひとつ。

1666年作ということだからフランス革命の前、ルイ14世の時代だった。ヴォルテーヌより前の時代、ラシーヌと同時代ということ。ラシーヌの古典悲劇に比べ軽薄洒脱な宮廷(サロン)喜劇。小話的なアリストテレスの三一の法を遵守しているようであるが、一つの場所、一日の時間、一つの筋というのはラシーヌよりわかりやすい。コントの前身である。

当時の貴族サロン批判の話で、文化的なスノッブなおしゃべりな女を喜劇的にコントにしたのである(後のプルーストと通じるところがあるが、こっちは小話である)。おしゃべりな女に対置するのが堅物な貴族の男で、社交的な生き方が出来ない。この2人の関係(恋愛ドラマ)に詩を書いて有頂天の貴族の男(ヒロインであるセリメーヌに捧げた詩のようでもある)を青年アルセストに批判したので裁判沙汰になる。そうか、このコメディは日本のアニメでも使われていた(『めぞん一刻』とか)、ひねくれ者の独身男と外交的な女性主人のパターンである。

よくある三角関係だが、それぞれの友人が出てきて、友達を庇いながらも愛想をつかす2人の友人同士が結婚する結末だった。シェイクスピアも喜劇の結末は結婚だったが、こっちは主人公の青年は結婚が破綻していく話でもあるのだ。建前は堅物男の喜劇を描いていながら、サロンで男に愛想を尽かしながら本心では男を否定している未亡人のセリメーヌの当て付けのようなドラマでもある。

小気味好い会話劇を楽しむものだろうか。原作は韻文(アレクサンドラン詩行)で書かれているというが、この訳では散文で読みやすかった。ラシーヌでは苦労したが。

モリエールは、コメディ・フランセーズを立ち上げた人だという。そんな感じのエスプリ感じる喜劇ではある。ただ単調すぎる話なので、シェイクスピアの方が面白かったかな(ストーリーの複雑さ)?

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