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シン・俳句レッスン167



俳句ミーツ短歌「1+1=1 一つのものを見つめたり、二つのものをぶつけたり」

堀田季何『俳句ミーツ短歌』より「1+1=1 一つのものを見つめたり、二つのものをぶつけたり」。「一物仕立て」と「二物衝動」のことを言っているのだが解釈者によって違うようである。こういうのは困るよな。

古池や蛙飛び込む水の音 松尾芭蕉

季語「蛙」を中心とし、そのことを詠んだ俳句だから一物仕立て。しかし去来抄では、この句はもともと「古池や」という上五ができて無く芭蕉が其角に尋ねたところ「山吹や」といれたのだが、それは和歌での取り合わせで蛙と言えば「山吹」というのが常識だったというので、芭蕉はその常識を覆して「古池や」としたという。もともと上句と下句の取り合わせだということを主張する説もあるそうなのだ。

どうしてそういうことが起きるかというと実景+想念では一物仕立て、想念+想念は取り合わせということになるのか?芭蕉はもともと一物仕立ても二物衝動も考えておらず、ただ取り合わせの技法を活用したのが芭蕉だと言われている。しかし、実景+想念(主体写生)の場合、それが季語の想念を描いている(客観写生)の場合やその想念が外側(主体写生)のものだと二物衝動とみなすとか読み方によって違いが出てくるという。

だいたいの物は二物衝動で処理できるというのだが。

虚子と去来

正岡子規の写生の手法を突き詰めたのが虚子であるが子規は芭蕉よりも蕪村の俳句を好んでいた。しかし芭蕉の写生術を見出したのが虚子だったのだ。それは『去来抄』の接近であったのかもしれない。

虚子と誓子

虚子の客観写生は想念を写生のごとく詠む技法で、このことから山口誓子と対立することになるのだ。つまり山口誓子の写生は映画の技法を取り入れたもので、クローズアップとかモンタージュは主観描写の技法を俳句に取り入れたのだ。これは写生句を想念(観念)によって描いた俳句ではあるが、そこに季語がある限り観念句ではなく客観写生と言われる虚子に対して、多分にこれは山口誓子の都会的な俳句と虚子の地方性の俳句(松山主体)の違いにあるのかもしれない。山口誓子にはもはや虚子のいうような故郷(松山)の自然よりは人工的な都会性の俳句を求めていた。

その山口誓子が手法として取り入れた映画的手法は新興俳句だけではなく、「ホトトギス」の人間探求派と言われた俳人たちにも受け入れられた。二物衝動という中で季語の中で想念を切り離して(モンタージュか)描いたのでその繋がりがイメージできないと難解派と呼ばれるようになった。しかしそれらの句は解釈されることで新しい詠みを発見していくのだ。それが切れの効果であるという。

切れ字は芭蕉の俳句では秘伝とされるもので伝わるのは芭蕉の口伝である。

そのために切れ字の解釈は様々で一般的に切れ字「や、かな、けり」が使われるが短歌の場合一字空けを息継ぎにの切れとみなし、富澤赤黄男の一字空け俳句もあるが、それは断絶?だという。短歌も俳句も分かち書きする人がいるが、意識的に分かち書きしているのは高柳重信でそれも断絶ということで切れとは違うという。

参考図書:高山れおな『切れ字と切れ』

堀田季何は「切れ」がなくとも季語的なキーワード(場合によってはキーフレーズ)があればいいという。それは言葉の強度だろうか。切れ字という芭蕉の秘伝が俳句の極意とされて弟子たちのそれぞれ切れ字観が出来てきたのだはないのだろうか?

「短歌」と「俳句」の私性

やはり一番戸惑うのがこれだった。それは小説の世界ではフィクションが当たり前とされているのに「短歌」や「俳句」は私性に強くこだわるのだ。俳句の無私というのを裏を返せば私性ということだし、現に「境涯俳句」などという石田波郷らもいる。これは波郷の弟子である野村登四郎が波郷に生活を読まなければ駄目だという言葉を真に受けて、秋桜子から美的センスがないと言われたのがわかるような気がする。

春雷や暗き厨の桜鯛 水原秋桜子
これやこの重く冷たき漬物石 野村登四郎

別に秋桜子のように「美」に拘るつもりはない(むしろ「美」は疎外するものと思っているから)、生活句でもいいのだ。ただそこに思想性というか一貫性が欲しいのである。漬物石が日本の家族制度の象徴であるならば、むしろ野村登四郎の句の方がいいとさえ思う。多分秋桜子の俳句は今だと季重なりの山本山ねと言われてしまうだろう。そういうことなのだ。

俳諧でも滑稽さを求めたのはリアリズムよりは言葉の遊びとしてだ。しかし、そのにリアリズムを求め真面目だから偉いということはなく、返って精神的で息苦しい俳句もあるだろう。息抜きとやっている俳諧なのにと思うのである。なんというか貧乏自慢ではないが絶望自慢的な俳句は駄目だと思うのだ。その機転の効かせ方がアイロニーになったり俳諧になったりするのだ。

俳句よりも短歌の方が作者主体を求められるというのはその通りなんだろう。寺山修司とか短歌を読めばそこに虚構性が含まれているのは当たり前なのだが。ただそこに寺山修司のリアルさがあるのだ。

それは文学にあるリアルさと同じだと思うのである。

地名を読む

これも歌枕としての地名は実際に現場に行かずともその地名によって引き出されるイメージなのだ。それによって逆に地名は強化されてきた。逢坂が男女の別れの地名となっている和歌はそういうことなのだ。

それは地名が持つ呪術的な力、例えば強者によって滅ぼされても弱者の中でその言葉を唱えるとそこに戻れるというイメージ力なのだと高橋睦郎はいう。それはそうなのだろう。パレスチナという土地が爆撃にあおうとパレスチナ人のイメージの中にいつまでもパレスチナという歌枕は存在するのである。

大和朝廷が滅ぼした陸奥の歌枕というのはそういうものだそうだ。その歌枕を詠んだ歌人に西行がいて、それを再び俳句で蘇らせたのが芭蕉なのである。それは定住に対しての漂流という思考なのだという。定住漂泊というには金子淘汰が言ったのだった。

恋歌と恋句

短歌の伝統ではフィクションの恋歌も許されている。最近このことを知ってもっと恋歌を読まねばならないと思っているのだが、俳句では恋句はすくないような気がする。それはアニミズム的な自然愛ではないのか。つまり季語を愛するということなのかもしれない。

そういえば芭蕉の恋句にはボーイズラブ的なものも多いとか。今度チャレンジだな。

海外詠(季語のない国で)

日本は四季がはっきりしているが砂漠地帯や熱帯などは季節が定まらない。そうした国でも俳句は詠まれるのであり、それは季語というよりキーワードとして「無季」俳句も詠まれている。それらは「超季」とされて、俳句は季語よりも短詩であることが、キーワード的な言葉を強度として成り立つ。それらを「雑」の句というそうだ。あまり「雑」の句も作ったことはないから今度チャレンジだな。それだと川柳になりはしないかと思ってしまうのだった。

摩天楼見上げてフラミンゴの夜 堀田季何
塔のぼる銀河中心部へ向けて
永遠や砂漠に彫って我が名前
角砂糖踏みしめ蠅や王の気分

AI俳句

AIによる俳句は平均値的なアルゴリズムの中で一番の問題点は疑わずにルールに忠実だということだ。そこに驚きはない。あるのかもしれないが「歳時記」で難解な言葉を引いてくることに似ているのかもしれない。その人間の主体性がその中にあるかだった。そのための読みでありAIひとりが俳句を並べるのとは違う。それを物語化できるかどうかは読者の力にかかっている。突然変異的な衝撃な俳句はできるだろうか?その時はAIの天下だな。

堀田季何『人類の午後』

堀田季何は山口誓子を受け継いでいるのかもしれない。映写機の句は、まさにそういうことだった。

一九三八年一一月九日深夜
水晶の夜映寫機は砕けたか 堀田季何

堀田季何『人類の午後』

「砕けたか」の言い方は「映像の世紀」「パリは燃えているか」の模倣だろうか。

雪女郎、人権なき者。四句
雪女郎冷凍されて保管さる 堀田季何

堀田季何『人類の午後』

「雪女郎」は「雪女」のことだが女郎というと日本に出稼ぎに来ている女性を連想する(フィリピーナとか)。『人類の午後』は想念句を詠んだものなのかもしれない。

月光に白し吾が手も合鍵も 堀田季何

堀田季何『人類の午後』

月はディオニソスを連想されるのだが、この俳句は葛原妙子を短歌を連想する。

花といふは櫻の事ながら都而春花をいふ。(芭蕉、服部土芳『白冊子』より)

花どきの反實假想ゆるされよ 堀田季何

堀田季何『人類の午後』

堀田季何も芭蕉の法論に惹かれるのか?芭蕉の警句は花というのは古典から桜を言うが現在では都に咲くすべての花ということなのだろうか?その代表が桜だということだ。つまり都市部ではすでに桜を街路樹として自然という桜ではなく都市化された桜のイメージ、それが「反實假想」のヴァーチャル・リアリティというような、福島の桜もTVで観た桜であり、それは脳化社会の実相(写実)なのである。

芭蕉の風景

命なりわずかの笠の下涼み 芭蕉

芭蕉が西行を慕って小夜の中山の途上で詠んだ句で芭蕉の西行の歌の本歌取りであるという。

年たけてまた超ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山 西行

西行は三十代に憧れの歌人能因に倣って陸奥の歌枕を見て回った。そして晩年(六十九歳)になってから、東大寺の大仏建立のために陸奥平泉の藤原秀衡を訪ねることになった。その時の峠超えを若い時を思い出しながら「命なりけり」と詠んだのだ。芭蕉はそんな大掛かりな用はないがわずかな命を抱えながら峠越えに望んだという句。

坂道も息途絶えるや無縁坂 宿仮

無季だった。

夏の月ごゆより出て赤坂や 芭蕉

ごゆは地名で御油から赤坂も地名だが東京ではなく、尾張の地。その短さを詠んでいるのだが、隣駅ぐらいの距離なのか。「夏の月」は何を意味しているのか?夏の夜の短さと月の出ている時間の短さということだった。

この句について芥川龍之介が「芭蕉雑記」で「調べ」の重要性を述べているという。


現代俳句

『現代俳句12月号』から新現代俳句時評「新韻律五七三に何を学ぶか 田辺みのる」。

マブソン青目の五七三定型の話が出ていて、安易に「けり」や「かな」を使って五七五定型にしてないか?という批評があって、そう言えばそういう俳句はよく作ると思ったのだ。

寒桜お尻ニキビと咲きにけり 宿仮

これだと

寒桜お尻にニキビと咲いた 宿仮

になるのかな。現代文にすると散文だったな。「けり」は切れ字としての役割で直前の言葉を強化する。だからここでは「咲いた」ことを強化するつもりだったのだ。「名詞+かな」かな注意しなければならないのは。

目に菊花詩吟歌えば李白かな 宿仮

目に菊花詩吟歌えば李白 宿仮

確かにこっちのほうが余韻は出ているのかもしれない。詠嘆より余韻か。それと「目に菊花」で切れているとすれば切れ字は必要ないのかも。一気に詠んだ一物仕立てか二物衝動か?写生句の場合、一物仕立てになりやすいとどっかで読んだ気がする。

今日の一句。

冬の坂「天国」と言えば図書館へ 宿仮

こんな感じか。なんかいまいちだな。二物衝動にすると。

図書館や「天国」に通づる冬の坂 宿仮

NHK俳句

題「息白し」
選者:堀田季何、レギュラー:庄司浩平。題「息白し」。「切れ」は切断することじゃない!?切れの効果とは。「句の途中の切れ」と「句の最後の切れ」を徹底解説。

NHK俳句も「切れ」だった。「切れ」を四週にわたってやるというから、かなり難しいのだと思う。わかりやすいのは「切れ字」を使ったものでこの中で直前に目立たせるように使えばいいという。季語がいいのかな。

文末の切れと文中の切れがあるのだが。やっぱ文中の方がカッコイイ感じがする。文末は最後までだらだらと流れていくような。

サイドミラーに細きつららや落ちずゆく 野崎海芋

注意しなければならいのは三段切れで

サイドミラー細きつららや落ちずゆく

だと上五で切れる(体言止め)から字余りでも「に」を付けたのだ。このへんは俳句を勉強している人ならわかるけど、難しいと思う。というかよく三段切れはやってしまう、まだまだ初心者だった。他に終止形も切れになるからこれも注意が必要。

「息白し」はそれだけで切れ字になるのか?「白息」という投稿作が多かったが「白い息」になると季語ではないと?どういうことなんだ!

マジシャンの鳩白息にもどりくる

この場合切れは鳩なのか。鳩がもどりくるは白息にもどりくるで消えるということだった。難しいな。「もどりくる」はなかなか使えない。

<兼題>木暮陶句郎さん「寒椿(侘助)」、高野ムツオさん「コーヒー」
~12月2日(月) 午後1時 締め切り~
<兼題>堀田季何さん「薄氷(うすらい)」、西山睦さん「春セーター」~12月16日(月) 午後1時 締め切り~


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