シン・俳句レッスン18
今日の一句
青どんぐり。台風の時に落ちたのか?よく見ると可愛いい。どんぐりころころという歌もあるぐらいだから。どんぐり眼(まなこ)とか萌えの対象だな。これ以上書くとヤバさそうなので今日の一句。
眼を目(め)としたのは中七の~ねと呼応させた。「あを」の「を」も可愛目。今日はどんぐり10句(目標)。
鈴木六林男
なんで俳人の名前は変態的なのが多いのだろう。師匠が弟子につけるときに笑いを取ろうとするのかな。俳号は師匠に付けてもらった方がいいという北大路翼の意見だが、なんでだろう。名付け親ということか?そういうところが保守的なんだよな。ちなみに宿仮は自分で俳号付けた。最初は宿借にしていたのだが、変換が宿借の方が出やすいのでそれに決まった。短歌では「やどかり」にしているけど、決まったルールはない。まあ俳号意外はひらがなの方がよろしいようで。また自分語りをしてしまった。
川西大も六林男を「むりお」と読ませるのは随分無理な読ませ方と言っている。変換では絶対出てこないし、単語登録しかないな。西東三鬼によると人柄も頑固な男だったらしい。奔放で繊細、男気があり義を重んじ筋を通すという。ここまでは褒め言葉だろうか。奔放で繊細ってなんなんだ。奔放のように見えて実は気が小さいということか?戦争体験を核にして論理的に粘り強くブレがないという。
どんぐり眼の真逆だな。
鈴木六林男も戦争俳句で注目を浴びるのだが、白泉や赤黄男の句とは際立った違いがあるという。
白泉の戦争俳句は戦争批判として軍部の内部から権力構造を取り出してみせた。
赤黄男は暗喩などを用いて文学的仮構によって戦争を詠んだ。
前線兵士として生死の記録としてリアリティある戦争俳句を詠んだ。それは戦地ではメモは取れないので俳句によって暗唱して帰船の中で書き写したという。それはルソン島からフィリピン「バターン死の行進」というもっとも過酷な激戦地であった。
という戦時の句。
これは敗戦後の句である。六林男の本名は次郎と言って召集令状の入隊には本名が書き記されているのを詠んだ句。
永田耕衣
「天狼」という俳句雑誌がポイントのようだ。
山口誓子が虚子のアララギ派に対して花鳥諷詠なんて「あまちょろいこと言ってんだ、おらぁ!」と「過酷なる精神俳句」と言い出したのに呼応したという。そして「根源俳句とその素材」「東洋的無」とか精神論っぽい論調になっていく。敗戦間際の時代の風潮なのか、現実の写生句というよりは観念の人間存在の根源を捉えようとしたという。
「寝釈迦」の句は釈迦が愚かなのではなく、反語的な用法だという。
「蕊」は雄しべ、雌しべの「しべ」。このへんの漢字が難しいのは精神的な俳句の特徴。
「精神」は「彼岸性」にも通じていく。
「揚羽蝶」の句は連句で21句読んでいる群作。これは凡庸な句であると川名大さんも言うな。そんな中に傑作として、
が交じるというのだが、どこが傑作なのかよくわからん。確かに21句も読めば気に入る句も出てくるかもしれぬ。
「夢の世に」は夢の世のように儚いこの世という意味だという。葱は安いからか?「葱」と「寂しさよ」の「出会いの絶景」「言葉の奇襲」だという。よくわからんな。こういうときはやってみる。
誰かの魂が籠もって落ちてきたという句。お盆だから。
池に落ちて芽が出る可能性が閉ざされる。
「恋猫」の歌は一元俳句だといつ。一物仕立てとはちがうのだろうか?「アナロジーの発見」ということだそうだ。
難しいな。屁理屈か。諧謔性が生まれるとしているのだ。「恋猫」
今日はここまで。