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コレラ禍のエロス(生)とタナトス(死)の映画

『ベニスに死す』(1971/イタリア・フランス合作)監督ルキノ・ビスコンティ 出演シルバーナ・マンガーノダーク・ボガードビョルン・アンドレセンマリサ・ベレンソン

巨匠ルキノ・ビスコンティの「山猫」と並ぶ代表作で、ノーベル賞作家トーマス・マンの同名小説を原作に、作曲家グスタフの美少年への心酔と老いの苦しみを描いた。「地獄に堕ちた勇者ども」に続いて撮られた、ドイツ3部作の2作目にあたる。療養のためベネチアにやってきたドイツの老作曲家アシェンバッハは、ホテルで少年タジオを見かける。一目で少年の美しさの虜になり、彼の姿を見つけるだけで喜びを感じ始める。全編に流れるのは、アッシェンバッハのモデルになったマーラーの「交響曲第3、5番」。2011年には製作40周年を記念し、ニュープリント版でリバイバル上映された。

美少年の代名詞となっているようなビョルン・アンドレセンの映像でおなじみの映画。同性愛映画とイメージされるが、原作はプルースト『失われた時を求めて』の本歌取りのような気がする。それは主役のアッシェンバッハ(ハンフリー・ボガード)はマーラーがモデルとされ妻アルマの死から始まっているからだ。その面影を少年の中に見る。生と死のコントラスト。プルーストのベニス(フィレンツェ)は光のイメージの街だったがトーマス・マンは死の街である。それはコレラがまん延する街であるからだ(カミュ『ペスト』も連想させる)。

アッシェンバッハは妻の死後に光(芸術)を求めてベニスへ行く。その海岸は貴族の保養地だった。芸術は精神か感性かと議論する。当時のドイツは精神論がもてはやされた(ヘーゲル『精神現象学』とか)。健全な精神と身体。それに対してギリシア神話的な感性の世界はキリスト以前の邪教(悪魔)の世界なのだ。そこに美少年はアドニスをイメージして現れる。

アドリア海を蒸気船が走るオープニングは、産業革命後の風景(『失われた時を求めて』の時代)。『失われた時を求めて』の語り手がバルベックにバカンスで出会うアルベルチーヌの海岸での健康美は美少年と重なっていく。

そこに老いたアッシェンバッハと青春真っ只中の美少年を見出す。アッシェンバッハはシャルリュス男爵になぞらえる。それは同性愛的なイメージが出てくるのだが、テーマは「生と死」。コレラという彼岸の世界という中で道化役のように若作りの仮面を被ったアッシェンバッハの身体は、すでにコレラに侵されていた。健康な精神も病に蝕まれている現実世界の中に危うい生命の煌めきとして(刹那)の美があるということか。

そしてかつての音楽の不評は精神性よりも彼岸性を求める死の観念(エロスとタナトス)の中にあった(それはナチスによって退廃芸術とされた)。

マーラーの交響曲第五番の「アダージェット」がレクイエムのように演奏されるラスト(それを否定するのが『TAR/ター』の女性指揮者だったのだ)。


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