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シン・俳句レッスン51

月の歌は炭坑節しか思い出せない。月のワルツがあったか。フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーンとか。でも歌えるのは「炭坑節」だった。全部歌えるわけではないが。月の流行歌ってないものかな。ジャズではムーンレイが好きだった。

少の頃の記憶というのは恐ろしいな。ボケ老人になったら突然こういう歌を歌いだすんだろうな。

短歌とか俳句とかは月の歌は多いのに思い浮かばないのは何故だろう。星の歌は沢山あるんだよな。逆に和歌では星は詠まれなかったという。何か相関関係があるのかな。

世間との距離

テキスト、上野洋三『芭蕉の表現』から。

正秀亭初会興行の時

月しろや膝に手を置く宵の宿  翁
萩しらけたるひじり行燈(あんどん) 正秀

『笈日記』元禄八(1695)年刊

「月しろ」は月が出始める夜空が白んだ状態。芭蕉の発句はこれから始まる興行を待つ人々の緊張感を伝えているのだが、それだけでは読みが浅いという。昼から夜にうつろう「月しろ」の時間というのが、人々が手仕事を終えてそしてその手を膝に置くのである。宵の宿に集まった連中はそういう人々に対しての挨拶句なのである。月は芭蕉かな?

正秀の付句は月が出ようとしているのに行燈はないだろうということだった。まあ、それほど緊張した趣なのかもしれない。

何に此師走の市にゆくからす

元禄二(1689)年

此(この)の指示が師走の市に行く詠み手にかかるのか、下の句の鴉にかかるのか。問題は「何に」という目的で、風狂の人ならば師走なんかに市に行くのは鴉ぐらいなものだろう。しかし鴉が目的もあるのものでもなく何という疑問を投げかけるのだった。鴉は詠みてと重なっていくのであるし、その目的は相変わらずわからないものであるが、上句の「何に此」が投げかける言葉が鴉となって飛んでゆくのである。この用法は『源氏物語』の末摘花との成り行きを詠んだ歌にあるという。

なつかしきいろとはなしに何に此末つむ花えおもほひひそめむ

「心惹かれる花でもないのに、何でこの赤い鼻をした末摘花を相手にしたのやら」という意味だという。

秋深き隣は何をする人ぞ  芭蕉

元禄七(1694)年

芭蕉の時代には「隣」は気心の知れた隣人がいる住処だったのだと。だから隣が何かをするのは想像できたという。敷居も壁も薄いということよりも隣に気心が知れた隣人がいないととても住めないということだったという。それでもそう漠然と問い掛けてしまう秋の暮れなのだ。

今は隣に誰がすんでいるのかわからないので、この句の意味も変化しているのだ。その隣が誰だか分からず自分も誰だか分からないように息を潜めて暮らしている。隣とは溝の深い境界があるというのは現在の方が深く感じる。

俳句いまむかし

『俳句いまむかし』坪内稔典。坪内稔典が編集する俳句の『古今集』ということか?過去の名句と現代俳句の名句の読み比べ。

春の雷わたしの好みを知るアマゾン  秋山泰

季語は「春の雷」「春雷」とも言い、それをネットショッピングアマゾンにかけた句だという。

春雷は空にあそびて地に降りず  福田甲子雄(さねお)

春雷は遠くで鳴っていていつまでも遊んでいるようだという句。夏の雷はすぐ落ちてくるのに、「地に降りず」というそういうことらしい。言われないとわからないな。アマゾンの方がわかりやすい。

十代の尖りてゐたる蕗の薹(とう)  井田美知代

今はフキノトウも珍しくなっているのでは。まず普段は食べないよな。通りを隔てた畑に出るのだが、眺めるだけだった。すでに高級食材となっているのかも。季節ものを味わうのも贅沢になってしまった。

にがにがしいいつまで嵐ふきのたう  山崎宗鑑

何のひねりもないような。「嵐」が「ふき」と縁語ということだった。「にがにがしい」も。ただ「ふきのたう」がいい感じだった。漢字よりひらがなの方が味わい深い気がする。「ふきのとう」というフォークグループもあった。

春寒き死も新聞に畳まるる  津川絵理子

「死も新聞に畳まるる」死亡記事も新聞にたたまれる無常観をだしているのか。

ありく間に忘れし春の寒さかな  栗田樗堂(ちょうどう)

「ありく」は方言だろうか?なんかいい。

唐津これ陽炎容るゝうつはもの  高山れおな

「唐津」は焼き物。「陽炎」が春の季語。ゆらゆら揺れている見える春の暖かな日差しか。名前に反して、古びた句だった。

枯芝やややかげろうふの一二寸  松尾芭蕉

陽炎は「かげろふ」だった。かげろうで「陽炎」と読むのだな。「ようえん」かと思っていた。「愛の陽炎」という歌もあった。芭蕉の句は一二寸が具体的でいいのだそうだ。また歌を聞きたくなってくる。

遊んでいるからちっとも進まない。

水溜りにもうすらひの汀あり  行方克巳

「うすらひ」は使ってみたい季語だな。

薄氷の裏を舐めては金魚沈む  西東三鬼

これも「うすらひ」と読ますのか?これは面白いな。別に死んだわけではないけど氷の中に閉じ込められている金魚の絵。

人並みであってたまるかいぬふぐり  武智由紀子

口語+季語。ただそれだけのような気もする。「いぬふぐり」と言いたかっただけかと。

親しくて好きではこべら犬ふぐり  遠藤梧逸

「親しくて好きで」が決めゼリフみたいでいろいろ詠める気がする。こういうのは季語が動くというのはないのかな。ただ「はこべら 犬ふぐり」ということで特徴があるということか?

葦芽ぐむ圧縮ファイル解凍中  川島由紀子

葦の芽は「葦の角」と季語で呼ばれるという。硬い角のように見えるイメージで、俳人からは好まれる季語だという。

庭踏んで木の芽草の芽なんど見る  正岡子規

子規がまだ歩き回れるときに詠んだ春の喜びの句。そう思うと切ない。

農学部ぺんぺん草もよく育ち  森田峠

「ぺんぺん草」も言わなくなったな。「薺(なずな)」とか難しい漢字を使うよりこっちのほうが面白い。

よく見れば薺花咲く垣根かな  芭蕉

芭蕉の句より蕪村の「妹(いも)が垣根さみせん草の花咲きぬ」の方がいい。芭蕉の句に和したというのだが。

蟇穴出づ食うだけはかせぎたし  大口元道

今の句だと言うが古いような気がする。

痩蛙まけるな一茶是にあり  小林一茶

蛙合戦というものを見てみたい。

春眠の目覚めにダリの時計鳴る  橋本美代子

現実と絵画の二物衝突。上手いかな。でもそれ以上の意味がないというかダリの時計に負けている。

春眠をむさぼりて悔いなかりけり  久保田万次郎

これもたたの句だった。何ていうだっけ。ただごと俳句。

 春の水とは濡れてゐるみづのこと  長谷川櫂

ただごと俳句ではないのは下句を「みづ」としたことか。「春の水」は雪解け水の季語。ただ内容的にはただとご俳句なのか。春の祝福するイメージはあるか。

春の水所々に見ゆるかな  上島鬼貫

「春の水」の本意は、雪解け水で推量が豊かな水なのだという。河原の池や沼にところどころ春の水の水溜りが出来る様だという。なるほど。

俳句の文体

夏石番矢『超早わかり現代俳句マニュアル』から。俳句には口語文体と文語文体があるが俳句は文語体のほうが多い気がする。

とことん靴を磨く 翔べないぼく だから  沢好摩

このリズムはいいな。こういう風に書いてみたい。自由律みたいだな。季語もないし。

墓のまはりにときどき泥が立つてゐる  夏石番矢

意味不明だな。モグラかな?啓蟄の情景だろうか?意味不明。ただその謎を詠んだだけなのか?

シーツみたいな海だな鳥たちは死んでしまつた  四ツ谷龍

これも意味不明。

美術展はじめに唇を処刑せり  大屋達治

文語だけど意味はつかみやすい。私語厳禁ということだろう。

握り飯ひかり合ふなり磯遊び  能村研三

これは好きかもしれない。握り飯が祝福している印象を受ける。

春の坂登りて何もなかりけり  長谷川櫂

これも面白いかも。何かありそうだと思ったら何もない坂道という。春の坂だから何かあるだろう。

一人の作家が文語と口語を使っている場合があるという。未熟なだけなんじゃないか?文語を使いたいけど安全パイにするとか。私だった。

頭抱く髪がアポロのように匂っているから  江里昭彦
未生の兄あれば空淫書のごとし       江里昭彦

後の句は意味がわからん。上野千鶴子の俳句仲間だった。確か俳句の上手い人と討論していつも負かされていたとか言っていたような。

うすものを着てそなたは他人らしいこと  中塚一碧楼

 中塚一碧楼は自由律の鬼才ということだった。

様々な「か」の用法。

失敗続きの日々だ雪でも降らないか  沢好摩

モノローグとして読者に差し出されている疑問形。自問自答する感じか。

北窓の開くを待つてゐる父か  能村研三

断定気味のある推測に詠嘆が加わってくる。

針は今夜かがやくことがあるだろうか  大井垣行

疑問の詠嘆だが、反語の意味を含む。

「命令形」によるヴァリエーション。

さきがけて薔薇の黄をとどけねばならぬ  宇多喜代子

作者の自問自答でもあり読者への命令にもなっている。

いつぽんの冬木に待たれゐると思へ  長谷川櫂
真神ガ鳴クナラ俎橋(マナイタバシ)ニテ雪ヲ待テ  夏石番矢

詠み手の強い願望を表している命令形。

こちら向け我もさびしき秋の暮  松尾芭蕉
五月雨の空吹き落せ大井川    松尾芭蕉

古典俳句でも松尾芭蕉は命令形が多いという。また芭蕉の命令形は句の途中に置かれて緊張感を保っている。

切れ字の用法。

友の瞳(め)に友映りゐて二階かな  摂津幸彦
夜の梅山は小さくなりにけり     鎌倉佐弓

俳句の切れ字には一句をしめくくるものがある。「かな」「けり」「ぞ」「なり」「たり」など最後で切れるもの。詠嘆や断定調か?古典的な切れ字が特異な感覚を呼び起こす。

花ぐもりまつかな舟を焼いている  摂津幸彦
一月の甘納豆はやせてます     坪内稔典
死児と死蝉が木をたべている朝  西川徹郎

古典語の切れ字ではなく、現代語で切れを表現した句。比較的新しい切れ字だという。散文的だな。

おぼろなり掌に石英のかけらの黄  今井聖
八月叫びて水鏡を乱す      豊口陽子

初句切れ。倒置法的に。「や」は倒置より宙吊り感にする。古典的切れ字には古臭さが感じられ新しい切れ字が求められる。「か」とか。

泡のごときものを枯れ野に打てる鞭  竹中宏

基本的に俳句は一行書きである。

竜胆の
色のうちなる
吾は
音楽        林桂

分かち書きは、それぞれの語を独立させて読者の目に視覚的に入ってくる。空間的、立体的な表記とも言える。

あんたらも仏参りに来いきれ服  摂津幸彦
封筒の口をねぶりてええ天気   摂津幸彦

一風変わった表記が言語遊戯的な試みとして用いられる表記。上の句は大阪弁。方言は有効である。

か、彼が 遠くの蟹へ帰るころ  坪内稔典

どもった口調が詩的言語として用いられている例。

二枚舌だから どこでも舐めてあげる  江里昭彦

ポルノ映画のタイトル的な表現。その他週刊誌・標語など日常目にすることばをパロディ的に使用する例。

雌ノ大和白蟻ニ不定愁訴ノ栄誉ヲ授ク  夏石番矢

昭和初期の教育勅語を用いた例。

鳶色の垣根足穂知らないか
飼い慣らし欲る滝が無い呪いびと  長岡裕一郎

二句一組で逆さ言葉を言語遊戯的に用いた例。

破門ずオルガンだーらの蛆拾遺よ  加藤郁乎
漏斗す用足すとますアクィナスを丘す  加藤郁乎

言語遊戯の第一人者は加藤郁乎だという。

俳句の文体の将来は、いつまでも古典用語に依りかからず、現代語で表現することが求められている。言語遊戯的な俳句を含めてあらゆる文体の可能性を探っていくべきである。

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