シン・俳句レッスン127
ネジバナ
俳句の季語にもなっているからけっこう詠まれていた。特別に注目されたのは朝ドラの『らんまん』ではないかと思う。文字摺草(もじずりそう)という呼び名があるが、語源は「信夫捩摺り」という和歌から来ているという。
それで古典的な教養を聖なるものとしてみなして、文字摺草で読む俳句も多い。「聖なるもの」と「俗なるもの」の対比が俳句だからか。
この句が面白いかな。「らんまん」のイメージ。
ネジバナの異名が左巻きだった。
芭蕉
川本皓嗣『日本詩歌の伝統』「俳句の詩学」から。
「白露」は歌語であって雅な世界を示すものだが、儚いものの代表とされている。その否定形だから俗なのだ。〈〉の中はこの句の基底部をなすものであり、それが拡張表現として「荻」(散る姿が美しいとされる)の生命力を称えている。
この拡張表現として「も」が使われる。「草の戸」は山里の粗末な家さえも代替わりするという、雛の家はお雛様で、芭蕉が旅立ちに明け渡す家でもやがて雛を飾るような家族が住むだろうかという「おくのほそ道」での句。
芭蕉の句の基底部は〈〉内の「三日月」が演出する。
「西施」は中国の古典の美女。湖上の雨の情景を踏まえたもので、「ねぶの花」が夢心地の世界へ誘う。「象潟」はそういう雅さとは対置しているのだが、その俗と雅の世界が重なるのが芭蕉の一句。
鯛は雅であるが塩鯛の歯という俗っぽさ。寒しの選択に魚は色々あれど塩鯛を選んで来る。鮭や鯖との違い。やはり塩鯛の高級感か?目刺というのもあるな。
去来はつまらないと言ったが芭蕉は高く評価した。去来はあとで納得したが、西瓜が西国では珍しくなかったので当たり前の景に見えたのだが、上方では西瓜は珍しく、見慣れれない西瓜に鼻を寄せる猪との取り合わせだったのである。
一人称の表現が拡張をはらむ、
「鳰(にお)」はカイツブリのこと。浮巣をわざわざ五月雨に観に行く風狂さを表現する。
「何にこの」の初句の意気込みを面白いとする。
同じように「何を」の好奇心の切実さともの寂しさを現す句。
字余りで俳句の風狂さを出した。「竹斎」は小説の主人公のヤブ医者。
字余りは故意に大げさに詠むことで俳諧味を出す。逆に故意に控え目に一七文字で言い切る名句に
世間的には目立たぬ場所に美を見出す。
現在の俳句はこっちの方法の方が評価される。
NHK俳句
ゲストも選者も暑苦しかった。木暮陶句郎が苦手と感じるのは喋りすぎるかなかな。俳人のイメージと違うというか俳句甲子園卒業の理屈屋俳人のような気がする。本来そういうほうが技法とか学ぶべきものが多いと思うのだが、語りすぎるから嫌になってくるような。俳句の余韻というものがない慌ただしい時間のようなNHK俳句だった。題詠の「鮎」も難し。浜崎あゆみしか思いつかなかった。
あゆは阿諛だったりする。
文芸選評
久しぶりの文芸選評を聴き逃しで。忘れてしまうな。
1993年は若いな。句で蝸牛の笛の句があったのだが、けっこう有名な玩具だと思ったがこの人は知らないで蝸牛のイメージが笛の音を出しそうと言っていた。寺山修司の本にも「カタツムリの笛」というのがあった。
櫂未知子の俳句でもカタツムリの笛があるという。
墓石なんかの蝸牛の筋後が草書のように光っている感じを詠んだ(詠もうと思った)。なめくじの方がいいかも。前半固いイメージ。後半柔らかく。頭が重いから逆のほうがいいか?
これが格調高く良かった。石棺を守っている蝸牛兵。
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