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桃尻娘は桃尻語でもある

『桃尻娘』 橋本治(ポプラ文庫)

女子高校生・榊原玲奈の生き生きとした一人称で語られる物語で、鮮烈なデビューを果たし、その後の現代小説の流れを変えた、橋本治の原点。

出版社情報

 橋本治が凄いのはそれまでの小説が男言葉(女子供のコトバの反対)で書かれていたのを女子高生言葉(桃尻語)を発明したことである。

 例えば太宰治が『女性徒』で、太宰が女性徒の日記を丸々写したことではないのだ。ただの日記と日記文学の違い。
 九段理江『Schoolgirl』は、母親の本棚から太宰治『女性徒』を発見して読んでいるうちに、太宰治の『女性徒』文体となる。それは九段理江の文体でもあるが太宰治『女性徒』とのミックスなのである。それだがら現在性にすぐれ多くの者に支持される。文体とはそういうものだ。
 その時に太宰治も女性徒の日記とミックスさせて女生徒日記文学を創作したのである。それを意識的にやったのは太宰治で女生徒ではないのだ。

 話を戻して橋本治は古典にも文学にも造詣が深い。そして文体の変化について興味深い主張をしている(橋本治は評論家でもある)。それは源氏物語の頃は漢文が公式文書であり、かな文字は女の文字であった。それだから和歌が女性の心情を表すものとして洗練されていくのだ。紫式部や清少納言という女官文学の発達が日本の文学に帰依した。文学の表現を模倣することで言葉が新たに生まれてくるのは、明治の言文一致は新しい翻訳語を生み出したということも、文語から口語によって近代文学が開かれていくのを見ればわかるだろう。
 それはけっして街中に溢れている口語を文字に写せばいいという問題ではないのだ。例えば二葉亭四迷が落語から言文一致の文体をうみだしたように。それもまったくの落語でもなく二葉亭四迷の文体とのミックスなのである。それによって、漱石や自然主義文学者が後に続くのである。
 橋本治が「桃尻語」でやったのは、二葉亭四迷が文明開化の青年の言葉を導きだしたように、女子高生言葉を導き出した。それは当時のあらゆる口語文学に影響を与えたと思うのだ(俵万智の口語短歌も橋本治がいなかったらもっと遅れていたかもしれない)。
 ライトノベルの文体が今風で洗練されているからと言っても、そのことを意識してなけば所詮ライトノベル止まりで、例えば1977年に『桃尻娘』が出版してから、今日まで読まれているとすればそれだけのものがあるのである。
 それは、『文學界(2022年6月号)』で千木良悠子「小説を語る声は誰のものなのか――橋本治『桃尻娘』論」が書いている通りで、私もその評論を読んで、橋本治『桃尻娘』の文体に衝撃を受けたのだ。
 例えば「桃尻語」が「ナウなヤング」という今では死語となるような言葉を使っているがそれだけではないのだ。語尾のカタカナとかの工夫。あるいは、熟語表現のカタカナ化。さらにくだけた若者言葉。例えば当時の純文学の言葉を読めば橋本治『桃尻娘』の読みやすさが一目瞭然である。
 ただ欠点がないわけではない。やはり「桃尻語」に比べると「ホモ男子」の一人称言葉はステレオタイプなのかなとは思う。それに、磯村薫「無花果少年」と木川田源一「瓜売小僧」は人物が重なってわかりにくいというのもある(「瓜売小僧」は編集者のリクエストだというので書きにくかったと)。他の女子高生もステレオタイプ的な感じも受けるがその批評精神を持っているのが「桃尻語」を操る榊原玲奈なのだ。
 批評性とは外部なのである。高校生の世界を描きながら学校教育のあるいは現実の高校生を批評できるのは、橋本治が生み出した榊原玲奈は一匹狼的な外部であるからだ。それは執筆当時30を過ぎたおっさんだった橋本治の外部性だ。
 それは清少納言の批評精神と繋がるのかもしれない(漠然と物語文学よりは随筆文学だと思うのだ)。ただの現実描写だけではこれほど面白くはなってないと思う。そこに橋本治の前世代に対する明確な批評性があるのだ。それは同世代にも向けられているのだが。あと文学だけじゃなく少女マンガの世界にも明るいというのは強みとしてあるのかな。


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