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シン・俳句レッスン104

メタセコイヤ

まだ新芽がでないのだが、残念なことに伐採されることになっていた。


公園の一本立ちは他の木から孤立しているので、害虫や病気に弱いというのを以前読んだことがあった。

樹木のネットワークがあって外来種は孤立してしまうという話だった。メタセコイアは群生する樹木なのだろう。古代からそうして生き残っていたのだが公園で植えてそのままという管理もなにも出来ないでただ見た目がいいからと植林するというのが許せない。耐性が出来たり、人間は何でも食べる工夫をするから食べているのだが、米とか小麦の稲作文化もそういう毒を排除して行ったのか。しかし、それが近年アレルギーを引き起こすことに成っているのは自然に近いのかな。安全ばかりじゃない世界という。今朝の一句。

古代樹の伐採されるもののけよ  宿仮

呪祈句だな。

幕間(ある俳句史─飯田龍太と三橋敏雄)

小林恭二『俳句という遊び──句会の空間』から「幕間(ある俳句史)」。飯田龍太と三橋敏雄。三橋敏雄は最後の新興俳句継承者という感じか。渡邉白泉、西東三鬼両方から指導を受けてのは大きい。新興俳句弾圧があった後に発表の場を失うのだが、その時古典俳句(芭蕉とか?)の研究をして、戦後に復帰した俳人だった。ただ戦後すぐではなく、昭和四十八年の『真神』が話題になったということだった。それはよく知らなかった。三橋敏雄というと口語俳句の池田澄子を思い浮かべる。彼女が『三橋敏雄の百句』の編集をしていた。

射ちたる弾道見えずとも低し 三橋敏雄

戦火想望俳句によって、天才少年として山口誓子に認められたのだった。実際に戦場に行かなくても戦争の映像を映画のように描いたということか。少ない語彙で本質的なところを抽出する能力に優れていたとする。

いっせいに柱の燃ゆる都かな  三橋敏雄

戦後の代表句だが無季だけど終戦間際の焼け野原の東京というのは理解出来る。

行かぬ道あまりに多し春の国  三橋敏雄

軽みがあるな。この辺が古典俳句の成果だろうか?

戦争と畳の上の団扇かな  三橋敏雄

「畳の上の団扇」は平和な象徴で戦争との二物衝動かな。

液晶の戦争をみる炬燵かな  宿仮

ありふれた句になったな。


裏富士は鷗を知らず魂まつり  三橋敏雄

山梨側からということだろうか?

戦歿の友のみ若し霜柱  三橋敏雄

やっぱ戦争の記憶が強烈に残っているのか。俳句は墓標だと誰かの言葉にあったな。

撫でて在る目のたま久し大旦  三橋敏雄

大旦(おおあした)は元旦の朝。目覚めて目に映る新年の様子なのか?

飯田龍太は伝統俳句ではこれほど恵まれた人もいないだろう。父親が蛇笏であり、サラブレッドの血と甲斐の自然の中に住んでいる。もう俳句をやる環境も間違いなくエリートコースなのだ。その俳句の上手さは認めざる得ないけど、そういう俳句を目指したいかというとちょっと違う。やっぱ異端の系譜に惹かれるのだ。

紺絣春月重く出でしかな  飯田龍太

「紺絣」を着る生活をまずしてない。それを来て春月観賞なのだ。世界が違う。

大寒の一戸もかくれなき故郷 飯田蛇笏

そういう旧家の故郷だよな。

啓蟄やまだまだ外は寒い  宿仮

そのままで工夫がない。

啓蟄や伐採樹から逃げ出して  宿仮

父母の亡き裏口開いて枯木山  飯田龍太

こういう世界を飽きずに繰り返しているのが伝統かな。

白梅のあと紅梅の深空あり  飯田龍太

そういう土地なんだろうな。ここは白梅も紅梅も桜も一色多に咲くような感じがする。

黒猫の子のぞろぞろ月夜かな  飯田龍太

ファンタジーだよな。都会では嘘っぽいけど田舎ではあり得るかな。

白雲のうしろはるけき小春かな  飯田龍太

難しい言葉はつかってないのだが、季節の「うしろ」は時間と「はるけき」は場所の距離を現しているのだ。上手い句だと思う。

飯田龍太が好感が持てるのはあまり難解用語を使っていないからかな。文語や古語は使うのだが、それほど奇異な感じもせず自然と言葉が出てくるような感じか?季語を感じるままにというその土地の空気なのだろう、その透明感みたいなものか?

昭和俳句史「十七音詩」の新風─林田紀音夫の無季俳句の成果

戦後になると俳句の予定調和の季語性が疑われてくるようになる。それは虚子派による安易な二物衝動による季語趣味の妥協は類型化や自己の消滅化に向かわせるからだった。

誰もがみなコーヒーが好き花曇 星野立子

そこから各自が季語によりかからず、中世的な伝統を断ち切っても、現代の民衆(庶民の意か)の精神を盛る俳句の誕生を求めるのだった。

それは戦時は戦争であった。

洗つた手から軍艦の錆よみがえる 林田紀音夫

『十七音詩』

戦死者の沖からの波足濡らす 林田紀音夫

『風蝕』以後

林田は大正生まれだが戦後派として、戦争体験の俳句を詠んだ。それは国家に翼賛する姿ではなく無名の戦死者に寄り添う俳句だった。

戦後は戦時の反省から反戦的あるいは左翼的なプロレタリア俳句などが生まれたが、そこに表現の改革はなく非個性的な句が並ぶ。それは金子兜太にしても西東三鬼にしても「広島」というそのイメージ寄りかかるだけの句が多かった。

広島や卵食ふ時口ひらく  西東三鬼

林田はこれらの句に誘発されながらも表現方法として無季俳句に拘っていく。それは戦時の無季俳句が「風流より生活へ」を目指した失敗による、無季俳句の行き詰まりが過去の災いを季語にすることでもそれを乗り越えられなかった。それは東日本大震災の俳句で抒情性に流されるものが、後の国家権力に利用される「絆」ということかもしれない。その「絆」が立ち切れた個人の側に立つということなのだろうか?

死ぬわれに妻の枕がなべらる  林田紀音夫

(昭和24年)

それはプライベートな境涯俳句を目指していくのだろうか?そこに庶民との連帯はないのだった。

隅占めてうどんの箸を割損ず  林田紀音夫

無名の庶民の一人となって他者とかかわり合いながら生きていく。

消えた映画の無名な死体椅子を立つ  林田紀音夫

無季俳句に挑戦。

アカデミー波紋を呼ぶセレモニー  宿仮

音韻的にいいかなと。

メタセコイヤで一句作りたかったな。

ヤで終わるメタセコイアの誤りヤ 宿仮

メタセコイアと書きがちでアっと気づくみたいな。

今回の俳句。

古代樹の伐採されるもののけよ
液晶の戦争をみる炬燵かな
啓蟄や伐採樹から逃げ出して
アカデミー波紋を呼ぶセレモニー
ヤで終わるメタセコイアの誤りヤ



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