シン・現代詩レッスン28
テキストはエーリヒ・ケストナー『人生処方箋詩集』。そもそも詩が作者の意図通りに読まれるということがあるだろうか?例えばここにまとめられた詩は、ナチス・ドイツによって禁書とされ、ドイツ人の学生たちの焚書のターゲットとなった詩なのである。それ以前の詩は、ドイツの若者たちを熱狂させた詩であると言われている。それはケストナーが意図してベストセラーを狙ったり焚書の憂き目に合わせるために書かれた詩でもなかった。ケストナーがまだ無名で何者でもない時代に詩を作って読まれたいと思っただけの詩にしかすぎなかった。私がこのケストナーの本を読むのも「人生処方箋」というよりは、その紙で葉っぱを巻いて酔ってみたかったのかもしれない。最初にケストナーの詩を読んだのは寺山修司『戦後詩』というアンソロジーの本であったのだ。
それは今の現代詩(今というには古い寺山修司の時代だが)がどのような傾向なのか、探ってみたいというのがあり、たまたまケストナーの詩が掲載されていて、詩に酔ってみたかったのである。
それがたまたま上手く行ったので、再トライしているに過ぎなかった。薬の処方箋と言えばそんなふうに言えないこともなかったが目的が違った。それは文学の薬よりは毒を服用するようなものだろうか?毒というより酩酊感みたいな、依存症的な中毒症状なのかもしれない。
最初の「列車の比喩」からやられてしまう。何気なく乗った列車が「銀河」行きなのか?「アウシュヴィッツ」行きなのか、いろいろ想像が膨らむ。
4人掛けのボックス席か?こぼしているのは弁当とかだろうか?愚痴をこぼしているのかもしれない。その隣の男がさかんに喋りまくっているのだから。駅名がわからない。わからない方がいいのかもしれない。歳月を横切っていく列車だから比喩なんだ。目的地に着かないのは、そこが死の終点だからか?
ケストナーが詩を書いたのは希望を持っていたのだ。しかしその詩は焚書の憂き目に会い、今読むと違う意味合いを持つ詩に変わっている。予言詩と言ってもいいかもしれない。それは過剰な現在の解釈だろうか?
普段は乗り越すなんてことはないのだが、たまにスマホに夢中だったり読書に夢中で乗り越したことはあった。一番印象的だったのは学生時代に寝過ごしてどこかわからない場所を走っていた恐怖感は今でも覚えている。そういう恐怖感のようなことが「銀河鉄道」だったり「アウシュヴィッツ」だったりすることはあるのかもしれない。今の時代はそういうことはないだろうが。
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