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短歌は生もの、化石言語ではない

『歌ことば事情』安田純生

短歌の世界で不思議な「日本語」が増殖している。現代文語体短歌に多く見られる、破格の文語表現と、古語でも日常語でもない特殊な歌ことば。これらのことばについて考察した稿を収める。

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短歌に用いられる文語表現文法的な正しさよりも過去の使用例によって用いられることが多く、文法的には正しくない歌でも短歌界では平然と用いられている場合がある。筆写自身は文語体の歌人であるから、そういうことに注意深くなるが、とりわけそれを否定するものでもない。なぜならそれは啄木の歌や茂吉の歌にも用いられているからだ。

歌は時代の俗語を取り入れながら発展していくので、国語辞典のような権威付けられない歌も存在し、それらはその当時の人々の共感を持って広がっていく。啄木の歌の文法上の誤りよりもその表現方法に惹かれてゆくのだ。それは考えて見れば当然で国語博士が人々に感銘を与える歌をつくるかと言えばそうでもない。言葉足らずの歌でも切実な歌ならば感銘を与えることは石川啄木のうたが読みつがれていることから明白なのではないか?

まず文法書を学ぶよりも人は自分の好きな歌を真似ることから始めるのであるから、文語表現もあまり厳密に考えなくともいいと思うようになった。言葉は生ものなんだから。

文法といへる小姑声あはせべくべくべしべきべけれやかまし

吉岡生夫『男怯篇』

文語短歌の文法的誤りは、漢語を和風にするときに文法に則るよりも語感の響きで広まっていくことの例が「月の下び」として、取り上げられている。漢詩では「月下」でありふれた用語だが、それを和風にしたのが「月の下び」だという。それは「月の下辺り」の言い方「月の下べ」と本来言うところを語感が美しいからと「月の下び」にしたのだという。野の他に「老い父」「老い母」というのも、漢字で「老父」「老母」というのを和風にしたもの。

著者が主張するのは、現代の文語短歌を正確に出来る人はまれにしかいないという。何を持って文語とするのかが問題で著者は平安時代に歌われた短歌をその基に置いているが、それも時代と共に用法は変化していく。例えば「悩まし」は『源氏物語』で使われていたのはお産が苦しいの意味だったが、その苦痛の表情が今日の「悩まし」となって女性の魅力になっているのである。今では「悩まし」は苦しいよりも官能表現として使われる。

文語短歌は、文語体短歌(文語風短歌)であるのは言葉の響きが短歌では左右するから文法通りだとガチガチの滞った韻律になる場合もあり、そういう響きを重視する歌人に誤用が多いような気がする。

さらに歴史的仮名遣いになるとややこしくなるので、もう使えないと諦めた方がいいのだろう。特に漢字の読みは複雑で著者も1字づつ辞書で調べなければわからないと言う。それでも歴史的仮名遣いが短歌世界で用いられるのが多いのは、かつての結社がそれを当然としたからだ。文語にしても歴史的仮名遣いにしても、短歌という作品の添削をもとめられる場合、感性的な部分では個性の違いがあるので訂正しにくい。そのために先輩らの歌人は文語、歴史的仮名遣いを厳しく言うことで先輩風を吹かせるのだという。それでも美学的見地からはあやふやな部分が多いのも事実である。斎藤茂吉が重宝がられるのも、それを教科書とすれば知っている者の方が立場的に偉ぶれるのだろう。斎藤茂吉の短歌にも文法的な過ちはけっこうあるらしい・

この本で取り上げられた誤った語法は使ってしまうかもしれない。それは短歌的には音律がいいのである。

あとこれは直接は文法に関係のない話だったが風の色の話が面白かった。風は本来透明なものだから、白が使われる。しかし緑の風や青い風は、春や夏の風の色として使われる。白い風というと秋から冬。実際に雪を背景として白い風という場合もある。そんな風の色だが現代では、様々な色で表現される。オレンジの風で南国風とか銀色の風でモダン風とか。あと「風の手」という表現。風がものを引き倒したりするから本来は凄まじい風なのだが、柔らかい風に触れるのを「風の手」と言ったり、「風の脚」と言う言葉も「雨脚(あまあし)」から連想して言ったりするという。


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