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シン・現代詩レッスン39

今日は西脇順三郎をやろうと思って、新倉俊一『詩人たちの世紀―西脇順三郎とエズラ・パウンド』を借りてきたのだがなかなかいい詩が見つからない(都倉俊一と間違えてしまった)。評論だからか。「馥郁タル火夫ヨ」の序文でもいいか?西脇順三郎のシュールレアリスム宣言みたいな序文だった。

現実の世界は脳髄に過ぎない。この脳髄を破ることは超現実芸術の目的である。崇高なる芸術の形態はすべて超現実主義である。故に崇高なる時も亦超現実詩である。詩は脳髄の中に一つの真空なる砂漠を構成してその中へ経験に属するすべてのサンサシヨン、サンチマン、イデ等をたたき落とすことによりて脳髄を純粋にせしむるところの一つの方法である。ここに純粋詩がある。

西脇順三郎「馥郁タル火夫ヨ」

「脳髄」とは『ドグラ・マグラ』みたいだ。「意識」ということだろうな。脳髄を破るというのは無意識的な力か?崇高なる芸術と言っているのだから美意識のことだろう。それは無意識的な超現実主義であるということなのか?ここは美学(哲学)の伝統、真・善・美を受け継いでいるのだと思う。「サンサシヨン、サンチマン、イデ」は思想のことだろう。「サンサシオン」は感覚とかある。現実感覚か?サンチマンはル・サンチマンに繋がりそうだ、イデはイデア(アイデア)で、このへんはニーチェの思想に繋がりそうだ。ニーチェとかより空海かもしれない。曼荼羅とか。詩の在り方が念仏のようなものなのか?

現実の世界は虚構にしか過ぎない。すべてつまらない意識の仮称の姿でしかない。現実を変えるのは個人の力ではどうにもならないのなら個人の意識を変えていくしかないだろう。ここに詩的生活を宣言するのである。まずイメージしてほしいのは人間意外の存在だ。神ではなく、もっと動物的なものの姿。そこには混沌と過剰と外部への逃走=闘争があるのである。詩の中の言葉にしか世界はない。それは祈りのような念仏なのかもしれない。イメージすること、人間以外の獣たちを。

こんな感じだろうか?パロディ的なところがあるのは、西脇順三郎も諧謔を好むからだ。萩原朔太郎の詩の諧謔性を愛していたとか。ただそこに歌は求めてはいけない。それは抒情的になるからだろうか。諧謔性は醒めた心で世界を見渡すことだ。それを突き詰め過ぎると無=死しかないような気がする。とりあえず死を乗り越えるための祈りのイメージで念仏なのだ。生き仏になることか?崇められたいとは思わないが仏のように無心(解脱か?)だったらいいのにとは思う。

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