師走にて救世主(メシヤ)を探し吉野家へ
『短歌 2022年9月号』
この号は読みたいたい記事が少ないな。特集が「ほっこりする歌」なんだが、こういう歌にストレスを感じてしまう私の方に欠陥があるのだろう。そもそも「ほっこりする歌」とはなんぞや?まず、そこからだった。
【特集】ほっこりする歌
そんな気分の時にTwitterでデヴィッド・ボウイの言葉が流れてきた。けっこうこれに近いかもしれない。幸福と不幸を明確に白黒付けるつもりはないが、どこかしら完璧なる幸福があったとしてそれに疑問を挟む余地を見出すということだ。
それは社会全体が幸福ということは有りえず、誰かの犠牲の上での幸福なのではないか?だから最初から幸福を放棄しているのかもしれない。
無論幸福はそれぞれの人の価値観であり、高級ケーキを食べれば幸福な人もいるし、コンビニで大福を食べれば幸福な人もいるのだ。なんか大福食べたくなってきた。出来ればいちご大福。閑話休題。
【特集】結社賞受賞歌人大競詠
短歌業界も結社で出来ているのかとあらためて感じさせる賞である。ほとんど一般読者には興味外の賞ではあると思う。どう読めばいいのだろう?結社内の短歌の傾向を知ってもし何時に結社に入るとすれば(それは永遠にあり得ないだろうけど)この結社みたいな歌風を感じられるところかな。そんな感じで選びたくなったのは「かりん」かな。でもこれ顔写真いるのかな?怖いオジサンの顔のところは敬遠してしまうよな。
【巻頭作品28首】春日真木子・道浦母都子・藤原龍一郎・坂井修一
興味を引いたのは藤原龍一郎「蝉鳴かぬ夏戦争の終わざる」。
キッチュな言葉とロシアのウクライナ侵攻を詠んだ歌で、こういう歌はありきたりだよな、と思ったのだが不思議と言葉のイメージに捕らわれていく。それで歌人の藤原龍一郎を検索したらちょっと興味が出てきたのだ。
ソンタグ『反解釈』を思い浮かべた。例えば今月号の時評、山下雅人『戦争という「内面」の問われかた」で問題とされる各個人の「内面」がどう今回の戦争と繋がっているのかと問うものであるのだが、そこである程度の共感性を持ってしまえばその先には向かうことがない日本人のあり方。そんなあり方とは逆を詠っている藤原龍一郎の短歌なのだ。
この歌を読んで敢えて解釈をすれば、アイスカフェラテを飲んでいる人物。それはスターバックスかもしれない。そしてパソコンかスマホの液晶を無心に見ている。洗脳されてしまう言葉、例えば「アイスカフェラテ」なんであって、「アイコ」ではない(時代性の言葉だから若者にはもはや通じない)。そうした内面というより表層の世界に置いて、朦朧と「アイスカフェラテ」の氷は溶けてゆく。そして冷房の効いた喫茶店にいて世界情勢を眺めている。
そういう人間と多く出会うのだ。夜の都会でスマホを見ながら歩いている者たち。画面に照らされた顔は百鬼夜行としてないか?
都市の街路樹は自然の樹木の違いは明らかに、そこでは枝を張ることは禁じられ剪定される。大きくなりすぎた樹木は伐採される。最近では根が浮き上がらないように拘束具を付けた樹木もある。それでも都会の美観のために樹木が植えられる。
そういうものに慣らされてきている現実。内面よりも表層世界なのです。
これも実際にあったことだろう。しかし、その後は平静を装った者たちがまた交差していく。
これは実際の爆撃があったときのイメージかな。
繰り返されるニュース。
なんかね、新興宗教めいたメッセージだけど、そんなのがアルタの電光掲示板に流れていても不思議はない。メシヤが飯屋と気付いたときには笑ってしまうけど。
いつの間にかそう洗脳されている歌なのだ。
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