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シン・現代詩レッスン16

テキストは寺山修司『戦後詩―ユリシーズの不在』。詩の虚構性を記号的体験と言う。詩が現実通りでなくても成り立つのは文学であるからである。それを否定して、リアリズムに固執するのは非礼だと言うのだ。そこはよくわからないが、寺山修司は記号(言葉)的体験を現実へ持ち帰ることによって詩は有効なのであり、その逆ではないという。つまり現実を記号的体験へ持ち込む(リアリズム)詩は何が駄目なのか、よくわからん。

ラワン  北村守

一年に直径12mも太る
ラワンがある。
それはうそである

ラワンの中に
穴をくり抜いて
おれは住んでいる。
それもうそである
(略)
みんなうそ。
おれは27才独身
本棒二万五千四百七十円
手取り二万一千八百。

「うそ」という必要はないかもしれない。ただ最後の章はあってもいいのではないか?それもうそと強調することで、この社会がうそであると言いたかったのか?寺山修司は最後の章はうそを認識することこそ、より深い現実を見ることと書いている。その次にその反論が真面目な女子大生から来たのだが「現実主義(リアリズム)の功罪」について語っていた。

「ラワン」というのは「ラワン」材で外国産の材木であろう。まず「ラワン」がどういう象徴なのかわかりにくい。腐りやすいということだろうか?

27才で手取りは少な過ぎるのか。その時代がいつかわからないので判断出来ないことがあるかな。ただ極貧な生活というのはわかるような気がする。全体的に表現が屈折していて、何が言いたいのかわからないところか?

寺山修司が新聞記者でもないのに読者に訴えても仕方ねえだろうということだった。ただ北村守を検索してみたら、けっこう詩集を出している詩人であった。それで生活は出来ていたのだから、継続は力なりということなのか?

その彼が昔のこの詩を見たら恥ずかしく思うかもしれない。次の詩はその北村守がリアリズムを捨て虚構だけを書いた詩。寺山修司はその女子大生の反論として、その北村守の変貌した詩を上げていた。

指をまげると
骨が
ジャックナイフのように
突き出た。

ピカリッと光ったのち
みるみうるツヤは失せ
カッケのように弾力を
帯びてきた。
(略)
引っぱると
ぬけ
ぬけると
生える。

指をまげると
ジャックナイフのような
骨がとび出し
引っぱると
ぬけ
ぬけると
出ない
出ない!
出なくなった。

ちょっとコメディタッチだけど、こっちの方がわかりやすいか?「ジャックナイフ」は実際の変形した指のようでもあるがここでは象徴なのか?「ように」とあるから比喩だ。

それは言葉の比喩なんだろうな。
リアリズムの言葉が出なくなったのだろうか?そこにコメディ(喜劇性)を感じるがどうなんだろう。笑っていいのかよくわからん。

リアリズムの言葉は自己観察だから出しやすいというのがある。ただそれが全てではないし、こだわりすぎるとそのリアリズムから成長する時間があるわけだから、例えば私が今無職であるが、仕事を持ったら無職は虚構になるわけだった。言葉は停止した版画的な現実(写真的の方がいいのか)であるわけで、その中で自身はその変化を楽しんでいる。それは他人がどうのこうの言う問題でもない。ただ面白いかつまらないかだけだろう。まあ「ラワン」の詩はつまらなかったけど。

ただ詩人の人はそれなりに変化があるところを見せるので「ラワン」以前に北村守のファンにしてみれば、寺山修司の言葉はどうなんだろうと思うのではないか。例えば地下アイドルがアイドルになるのを見続けているオタクファンというのもいるのだと思う。そのときのアイドル性は偶然の産物なのかもしれないが少なくとも北村守は詩を書き続けてきたのだと思う。

それが寺山修司にも認められるぐらいの詩は書けるようになったということだろうか?継続は力なり。好きこそものの上手なれ。

たばこ  宿仮

折れたたばこの吸い殻で嘘がわかるという
俺はたばこを吸わなくなった
折れたのは俺のほうだった

言葉より仕草で嘘がわかるような
そんな関係性以前に
折れたのは俺のほうだった

無職の俺が一箱五百円はキツイ
それならばワンコインの飯屋を探す
折れたのは俺のほうだった

たばこを吸っていた俺を想像する
空に向かって煙を吐いている俺
折れたのは俺のほうだった


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