シン・俳句レッスン57
バッタ。漢字で飛蝗。これはもしかして蝗なのか。
確かに真面目な顔をしている。昆虫はみな真面目な顔をしていると思うが。不真面目な顔とか、魚類だよな。
文芸選評
選者佐藤文香、兼題「狐」。「狐」も季語なんだな。冬なんだ。冬ごもりの感じなのか?狐のマフラーとかもあるしな。今だと泉鏡花『小春の狐』だな。
俳句いまむかし
「骨っぷし」はよくわからないがうどんのコシのことのようだ。よくわからんがたぬきうどんよりは「骨っぷし」が強そうである。
石原八束は1919年生まれの暗い俳句の名手だという。「かそけし」がいい。そんなに暗く感じないけ。他の句も面白い
大木に倚りかかって目を閉じているイメージだという。冬木が眠っている句にも取れるのだな。
「つなぎやれば」の字余りは繋ぐ前は暴れ馬の感じか。
口語俳句。他の人の句を映すようになってから文語俳句になってしまったが、文語の方が言葉の切れとか韻文性とかやっぱ伝統なのかなと思ってしまう。こういう口語俳句でもいいんだが、池田澄子みたいだな。
子規の食いしん坊が出た俳句か?石焼き芋なんかでカリカリになった皮の部分が好きだったと想い出した。皮はカリカリにすると美味いのは鶏皮でもそうだよな。「かぢる」の旧仮名もいい。
「ロンドン訛」というネイティブらしい発言。ロンドンはイギリスの中心なのにあえて訛か。東京弁というのに近いかもしれない。下町言葉。
ロンドンに留学中の漱石の句。伊太利人は移民だろうな。とりあえず焼栗を売るのか?漱石はそういう移民の栗を食べたのかもしれない。日本だと焼栗は「天津甘栗」なんだと思うが、なんで「天津」なんだろう?中国で最も租界が多い地域だという。「上海」じゃないのか。「上海」だとモダンな感じがするが「天津」だと懐かしさかな。「天津飯」とか『ドラゴンボール』に出てきたし。
「蜜柑」は冬を代表する果物になっている。でも最近蜜柑食べてないな。今の蜜柑は甘いよな。昔はこんなに甘くなかった。オレンジの方は良く買うのだが、蜜柑はネット(網)売りだからかもしれない。一つで安く売れば買う人もいるだろう。家では箱買するほど冬と言えば蜜柑だったが。古くなると黴びて腐っていくのだが。昔は蜜柑箱(木箱)の上に乗って歌真似とかのエピソードがあった。
論語の「子曰、徳不レ孤必有レ隣」。なるほどバラ売りはしないわけだな。蜜柑がバラ売りされるようになったら徳も消えているのかもしれない。
よくわからない句だ。人参の存在感の強さだろうか?じゃがいもや玉ねぎを並べても目立たない。
これは面白い句かも。そんなことはないのだが、強引な論述。
クリスマスのライトアップを「聖夜劇」と言う優雅さか?SMショーにしか思えなかったが。
クリスマスをいち早く詠んだのが子規だという。俳句は流行を追いかける短詩だったんだよな。
「おでん酒」が冬の季語。冬は食べ物の季語が多い気がする。句会の寄り合いで最後は「おでん酒」とからしい。こういうおでん屋さん入ったことが無かった。野毛は「おでん」も有名なのだが、こういう店なんだろうな。
まさにこんなくだを巻くオヤジが句会にはいそうである。坪内稔典はカフカの方を歓迎すると書いているが。俳句だとカフカ的なものは嫌われるような気がする。「おでん酒」も一般の辞書にはなく、俳句特有の季語だという。
おでん酒だとこんな感じか?酒も飲めないが。
これは上手い句だな。
「ともし」は『万葉集』などに出てくる古語だという。こういうのが草田男だった。ただ人工的な絵画句で青空の広がりとしては「かもめ」の方にあるな。草田男好きじゃないから。
これは高度成長期の「アトム」を信じられた頃の手塚治虫俳句だな。今は『プルートウ』の時代なのだ。
虚子だけどいい句だと思う。対句表現が効いている。一見季語がないように感じるが「青写真」が季語だった。誰が決めてるんだよ!「青写真」は子供の遊びの日光カメラだった。今は「青写真」というと別の意味になると思うが。
身体をめぐる俳句
夏石番矢『超早わかり現代俳句マニュアル』から。
肉体
自分自身の肉体を拠り所にする俳句。
いきいきとした肉体を俳句の中で描くのを得意としたのは西東三鬼だった。
戦後俳句では金子兜太の俳句。
ナルシスの泉
自らの肉体に美を見出すとナルシストになる。
哀愁の凝視
身体を凝視することはいつも肯定的だとは限らない。
三橋敏雄は『真神』で肉体の哀愁を描き出した。
驚異の舞台
肉体のある部分は幻想の引き金ごなる。
孤立する肉体。スポーツなど。
病気
滑稽な異常を自覚する俳句。
俳句では風邪の句は多い。類語も「咳」や「くさめ」や「水洟」とあり、風邪にかかった人間をユーモラスに描く。
美しい異常
神経や精神を病むことは、美化されがち
死の幻影
境涯俳句となっていくのか。
高柳重信は、行分け俳句で病者の観念世界を描いた。
エロス
追憶の恋
エロスは幻想的になりやすく生々しさに欠るようだ。
俳句の身体性は五七五の定形の音数律が一句の中に枠をはめて広がって行きにくい。どこかナルシズムに陥ってしまうようだ。
橋本多佳子
『橋本多佳子全句集』(角川ソフィア)から。
『海燕』
橋本多佳子は杉田久女から俳句の手ほどきを受け山口誓子に師事した。杉田久女が虚子に師事して崩壊していたのに比べて、山口誓子というのは良かったのだと思う。ただ山口誓子は自身のエピゴーネンとして観ていたところがあるかもしれない。それは初句集『海燕』は山口誓子が選句して、序も付けていた。その中で俳句の中に「女の道」と「男の道」があると述べている。虚子が女流俳人としてターゲットにしたのがそのような「女の道」だったかもしれない。そこで杉田久女という才能が挫折していくのだ。その二の舞いを踏ませまいとしたのか。橋本多佳子は女性ながら「男の道」を歩む俳人として期待している。
そのひとつに「メカニズム」という言葉がある。それは自身をメカニズムとした目で捉えるということだろうか?女の身体としての句ではなく「メカニズム」とした俳句が選ばれたのである。ただ橋本多佳子のあとがきによると亡き夫の思い出と共にという言葉を残していた。
「葛の花」と道(男道か)で連想させるのは釋迢空の短歌だった。
ただ「露とびかかる」は「露」に幻想的な浪漫を感じる。
「和歌」を踏まえて句だろうか?
「冥き」は小池昌代のエッセイ「断崖を垣間見る」で蛍の句で取り上げられた
があった。『源氏物語』の「蛍」を連想させる句である。ただその中に揺れ動く光は我が身の情念を感じさせる。先の若布の句でも、女の情念が伺えるような気がする。
昏いのは掌の中に蛍がいるからだった。
樺太旅行の句。樺太は山口誓子の故郷だが、この句は白秋の「昆布干場のタンポポの花」という歌の影響だという。野菊に自身を投影させているのだろうか。そこの情景も「曇り来し」なのだ。
もう一句『海燕』で上げているのは
夫の死後に転機となった句だという。そこにひとりで生きて行こうとすつ決意が感じられる。
句集のタイトルとなった句かもしれない。
山口誓子の影響を感じさせる句だろうか。
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