シン・俳句レッスン112
菫
菫は漱石の俳句をすぐ思い出す。
『草枕』の世界を夢見ていたのか。
今朝の一句。
ソナタを猛練習するロシアの天才ピアニストのイメージ。イリーナ・メジュエーワのラフマニノフを聴いて。
赤黄男百句
坪内稔典・松本秀一編『赤黄男百句』から。
鳥居のことだと思うが、鶴の象徴は何だろう。その鶴が眠っているという。鶴は神の象徴。朱は血という解釈だ。戦争で傷ついた鳥居か?戦後ではなく戦中の俳句だということに注意を促す。
オノマトペとひらがな書き。句跨り。あかつきは夜明けだが、定形だとこめとげばあか つきのあをさ でまだ夜中だった。これは面白いかも。
ただのひらがな書きだな。
変化はあるだろうか?最初はささくれたピアノに感嘆する句。後は手のささくれをクローズアップした絵画的構図か?
わかりやすい象徴句。『山月記』を連想するかな。
北に流れている流木の比喩。流木は颱風とかで流れていく戦時(激流)とか。南は暖かい地方なのか?「千島最北端占守島にて」とあるな。北方列島か?
「崑崙」は仙人が棲む桃源郷。それがわかれば意味は汲み取りやすい。冬蝶は雪の雫になってしまう胡蝶の夢なのか?極北の幻想世界。
焼け野原の東京、せめて冬の虹を掛けるしかなかったのか?希望を見出したかったのか?
敗戦の情景なのか?生生しいな。そのまま詠むしかない句だが「大露に」が露のように消えていく儚さがあるのだろうか?
上と同時代の句だが明るい。「羽がふる」のリフレインが春の半島挟んで羽のように見せている。
壁のしみを見ても詩を思う。終戦後だからそこにも詩心を忘れていない赤黄男がいる。
終戦後は嘘でも吐くより仕方がなかったのか?それはつららのように儚い嘘なのかもしれない。
俳諧志(北村季吟、石田未得、西山宗因)
加藤郁乎『俳諧志』から。
北村季吟
歌道の国学者であるが芭蕉の師匠だということだ。季寄せ作法を芭蕉に伝えたとも。芭蕉は俳諧よりも歌学を学んだようだ。
芭蕉に「馬ぼくぼく我を絵に見る夏野かな」がある。
石田未得
俳諧よりも狂歌で名を残したとか。回文百句とか。
意味はわからんが、短歌での回文は難しいはず。むかしチャレンジした。
石田未得は言語派だったのだろうな。今でもいると思うが坪内稔典とか。私もそっち系かもしれない。回文をまともにやろうとするのだから。この本の編者である加藤郁乎も尊敬している感じである。
上の古今集の本歌取りだったのか。それを『吾吟和我集』(『古今和歌集』のパクリ)として俳諧師よりも狂歌師として気を吐いたという。変人だわな。
西山宗因
談林俳諧の祖だという。談林という人じゃなかったのか?
荘子の胡蝶にあやかってこの指止まれと談林が詠んだら貞門派を飛び出した俳諧師が談林派となったという。芭蕉もそうだったのか。貞門派より雅な古典的世界を詠んだとか。
歴史的歌枕を俳諧にしたりしたようだ。芭蕉の先駆けか?芭蕉の他に西鶴や鬼貫も談林派。
合評鼎談(辻村麻乃X抜井諒一X横澤放川)
『角川 俳句2024年2月』を読んで一ヶ月になるのになかなか読み終わらない。短歌も難しいが俳句はさらに難しいと感じてしまうのは作るよりも読みの部分だ。言葉の共通性がないと言葉は理解出来ないものだが、時代的背景とかよりも俳句言葉が外国語のようだというのがあるのかもしれない。文語とか旧仮名とか漢字もとても素人では読めない漢字を平気で使う例も見られるのだ。ベテランは塚本邦雄の当用漢字に腹を立て(権力が言語を支配するのは許せん!)という気持ちで正字(康熙字典)を使うのもわからないではないが、このネット時代にそれで筆記しようとするととてつもない労力が必要なのだ。それは半ば教養主義のように思われているのだろうか。
すくなくとも生活語でありたいと思うのだ。難解漢字を使う俳句界について、編集者の人から意見があったが、それが全く受け入れられない世界なのだ。そんな俳句ならさっさと滅んでしまえばいいと思いたくなってしまう。優しさがないのだ。
無論そこで努力した人が報われるのだろう。だがそれが詩心と言えるだろうか?そんな知識ならAIに任せて俳句を作っても同じだと思ってしまう。AIに康熙字典をインプットして季語を与え、文章にせよ。ただし韻文で。とかで俳句を詠ませて関心していればいいのである。
また内輪(座の文芸として)で難解漢字推奨の師匠がいたらそれに従わなければならないのか?別に従わなくてもいいのだろうが、そこではいい俳句とは認めてもらえない。少なくとも師匠が感心するような難解漢字をしっている必要があるのかもと思ってしまう。句会でも難解漢字を使う人がいるが、まだ句会だからいいと思うのだ。俳句という座があるのだから、先行句とかで使ってみたい漢字とかもあるはずなのだから。
そうした意味でも例えばオールド世代が若者言葉を知らないように若者も老人世代の漢字は知らない。驚いたのは結社で最年少が50歳とか。若者がいないのだ。結社によっては若者はただというところもある。そういう構造を誰も問題にしないのか?まず難解漢字は避けるべきだと思う。
合評はそういう傾向を知るのも面白いかもしれない。年代もベテラン、中堅、若手と三者三様なので。
三村純也「伊勢・丹波・吉備」
俳句雑誌は一句だけで評価するのではなく連句で読ませるということになっているのだ。プロとアマチュアの差は連句が読めるかどうかなのかもしれない。そのテーマとして「伊勢・丹波・吉備」というタイトルを見るとその古典的観光地の句だろうかと思うのだが。旅吟であるが、さすが観光地は詠まずに土地柄を詠んでいるのか。写生句のようだ。一番は「茸採」の句だとか。
井上弘美「南蛮酒」
似たような古典の観光地(芭蕉が詠んだ観光地)の句だが、こっちは観光地俳句のような気がする。こういうのは芭蕉が好きなひとはなるほどと思うのかもしれないが、芭蕉に興味がない人は意味を汲み取れないだろう。
朝妻力「亡き人のユニフォーム」
阪神タイガースにいた横田慎太郎という選手の追悼句のような。熱烈な阪神ファンなんだろう。
野球俳句だけではなく、一般的な秋の季節の俳句もあるが、それは作者の心情に沿ったものだろうか?
佐怒賀直美「広島」
旅吟が多いな。非日常だからか?広島だから当然「原爆」が出てくる。まあ、広島に行ったら誰もが「原爆」を読まずにいられないのかもしれない。紀行文的な俳句だろうか?
照井翠「呪いの棺」
戦争時事詠だった。現代では難しいテーマのようだ。当事者でないと、数多い時事詠に埋もれてしまう。まあ、ウクライナ人が詠んだ俳句にはなかなか敵わないと思うが、それでも詠みたいと思う意欲かな。
遠山陽子「未完の自画像」
いちばん読みたくないテーマかもしれない。そう言えば今月号に石田波郷の「俳句は私小説だ」が出ていた。それに反抗したのが藤田湘子であったという。俳句の想像力だった。
第69回角川俳句賞受賞第一作という野崎海芋「月山」。
読みづらい。難解俳句だな。どう読んでいいかわからん。意味は筍が御椀からはみ出るほどの朝餉に感動しているのだが、月山との取り合わせということはそれがおかずなのか?窓から月山が見えるとか。
観光地俳句なんだろうな。観光地俳句ばっかかよみたいな。そういえば、堀切実『「俳句」と「日常」』であえて旅するのではなく日常的な吟行するような俳句がいいとか書いてあった。でもそれが私小説的になってしまうのか?だから非日常を求める。そのへんだよな。日常詠なんだけど非日常のような世界観(想像力)なんだと思う。
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