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シン・俳句レッスン68

今日は三日月をテーマにしたいので画像は借りた。芭蕉の三日月の記事をみたので三日月で俳句を読みたと思った。

最近は一つの題材で多数作ることにしている。いきなりは難しいので過去作を読みながら気になるところに注意して真似ていけばいいのかと。投稿するわけでもないんで、真似っ子も許されるだろう。芭蕉だって西行に真似っ子だったのだし、西行もそれ以前の歌人の真似っ子から歌を詠んでいた。そもそも芸術は模倣から始まるのだ。最初からオリジナルティなんて無理だった。その前に。

俳句の達人

村上護編『俳句の達人が語る「私の極意」から。飯田龍太。飯田蛇笏の息子。

自分で自分の句を知ること、つまり自得という文芸様式  飯田龍太

これがなかなか難しい。自己評価に甘いからな。自分の句をよく知っていれば他人の評価は気にならずとも俳句が詠めるというのだった。作為的な句は駄目だという。作為的な句しか作れないが。飯田龍太の場合は、父から受け継いだ俳句も家もあると思うのだ。本人も言っているが保守的だった。自己の中に閉じてしまうものがある。それが自然と表裏一体となっているのだが。人間関係だという。ないものばかり。

高浜虚子の「陳腐はとらないけれど、平凡は結構」という言葉を尊重する。その平凡が実際には恵まれているわけで、それに気づかないふりをしているのか気づいていないものがあると思うのだ。まず自己を疑わない。だから保守主義だということなのだが。外国の俳句も勝手にやっているので日本の俳句とは違うという。その狭さが透けて見える。権威という言葉を口にする。自分が権威だと思っている人なのだ。

一月の川一月の谷の中  飯田龍太

二月じゃないのがミソか?十二月でもない、一月なんだ。

三日月や変らず欠ける十二月  宿仮

最後の月もまだ三日月という永遠性というか自問自答。自分を知る。

俳句いまむかし

蓬摘む光合成を山盛りに  小川弘子

「蓬摘む」はこの辺の川辺りでは農薬とか排気ガス臭さとかありそうだから、自然がある程度あるところではないと無理だった。そういう場所に住むことが出来るのなら世界や社会のことなど考えないで俳句を作るのも良しなのか?平凡な句だと思うけど。昔からの生業だった。同じ作者に「朝寝してマーマレードの甘いこと」も平凡な俳句だった。

よもぎ餅買ひて雲ゆく歩みかな  岡本眸

『男はつらいよ』の寅屋のよもぎ餅を連想する。それで土手を歩いていくのだ。こっちの感じの方が開かれていて好きかな。

肉まんを買ひて三日月立ち止まる  宿仮

飯蛸や明日いちばんの船で発つ  秋月祐一

飯蛸が気持ち悪く食べられないという女性に文句を言っていた人を思い出す。人それぞれだと思うが。昆虫食は嫌がる癖に飯蛸は美味しそうに食べたり。それが文化というものなのか?坪内稔典さんの「飯蛸が好き二、三匹だけが好き」というのはわかるな。あまり沢山は食べたくはない。

飯蛸のあはれやあれではてるげな  小西来山

こっちの方が趣はあるかな。そう思いながら食べているという人間の業の深さも感じる。そういう矛盾したところがあるのが人間なんだろう。

三日月のあはれやあれで月といふ  宿仮

満月じゃなく欠けているということ。

青ぬたや赤子畳に転がされ  伊藤一枝

青ぬたを食べたのは遠い昔だった。こんなもんを美味しいと思うなんて不思議だったが、今食べると以外に美味しいのかも。酒のつまみならいいかな。やっぱ本酒でつけたいとは坪内稔典さんの評。

青饅(あおぬた)や貧交了(おわ)るいつの日ぞ  山口草堂

これも青ぬただけで飲んでいる貧しさだという。青ぬたならちびちび飲めるかも。

青ぬたで月見でいっぱいコップ酒  宿仮

この月見は三日月だな。俳句だと酒飲みの句が多くなる。下戸なのに。

ものの芽や一日一句詠む暮らし  和田華凜

一日一句以上は詠んでいるとは思うが芽がでない。

三日月や一日一句詠む暮らし  宿仮

ものの芽のほぐるる先の光りをり  深見けん二

これはいい句。春を感じる。作者は虚子の弟子。虚子の「ものの芽のあらはれ出でし大事かな」も同じ頃の句で昭和に春の季語になったとか。

冬芽刺す三日月の夜鬼ごつこ  宿仮

三日月の夜に鬼ごっこして、隠れていたら冬芽で目を刺してしまったという句。

生も死も日常なりし木の芽和  鈴木須美枝

最後に木の芽和を持ってきたのは何故だろう?毒でも入っているのか?何の芽かわからずに作ったとか?

木の芽和へ女たのしむ事多き  及川貞

「木の芽和へ」はなんの芽なのだろう?サンショの芽に肉や野菜を和えたものとある。木の芽だけだと思っていた。ちなみに読みは「このめあえ」のようだ。これも酒のつまみだな。


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