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シン・俳句レッスン105

春の雨

昨日の句から。

見つめてるビニール傘の雨水かな 宿仮

まだ穀雨には早いから「雨水」にしたんだよな。春の雨でもいいんだが、ありきたりかなと思ってしまった。

不精さや掻き起されし春の雨  芭蕉

今日の目標句。芭蕉はやっぱ上手いな。起こされた時に春の雨の音を感じたのだろうか。「無精さや」から始めるのか?

いやいややややこ愚図つて春の雨 宿仮

やの音韻。

二日目 句会の醍醐味

小林恭二『俳句という遊び──句会の空間』から「二日目 句会の醍醐味」。

「自由詠」

太宰治の『富嶽百景』の舞台となった峠茶屋が舞台。あまりにも有名すぎて銭湯の絵と揶揄される風景を俳人たちはどう詠むのか。今回は「自由詠」だけに題詠に俳句の特徴が勝負かもしれない。

四点句が二句。

春の炉のそばより電話くどくどと

峠茶屋で富士山を目の前に電話をしている情景か?公衆電話で後ろで待っている人がいるのに長電話。「春の炉」が季語でほのぼのした情景と電話をくどくどする者への苛立ちと。そう解釈すると上手いかもしれない。飯田、高橋、坪内、田中選。ベテランと中堅の票を等しく集めた。上手い句であるのは間違いない。

この手の句は句会でなければ共有しにくいと言う。確かにこれが句集にあったとして、「くどくど電話している」人がいるんだな、で終わってしまう。作者は岸本尚毅。この人は句会番長というところがある。こういう句が上手いんだよな。

ひさかたのメールをするも反応なし  宿仮

スマホ変えたのか?困ったな?

雉子(きぎす)鳴くつめたき富士と思ふかな

飯田、三橋、田中、小林、と目利き俳人の選か?「雉子(きぎす)鳴く」が季語なんだろう。難解季語だな。雉の鳴き声と富士の冷たさが重なるのか?なんか平凡だな。

「つめたき富士」が意外に新しい表現だという飯田だった。高橋は「思ふかな」が余計だと。すっぱりいい切った方が良かったのか?詠嘆の「かな」だな。「雉子(きぎす)鳴く」が古語で「かな」で締める伝統俳句らしいと言えばらしい。「思ふかな」は無駄な言葉であるが意味を逆転させて本当は暖かったりするのかもと無意味さを言っているという説なのだが三橋。このへんの議論はよくわからんが、無駄なものをあえていう必要もないのではと思ってしまう。

「下五」はサイレントで言葉にならない思いだというのが三橋や飯田の主張だった。これも岸本尚毅だった。

雉の鳴き声が聴覚、つめたき富士は触覚(風とか)。思ふは概念ということか?ただ過ぎ去っていく不条理さなのかもしれない。解説を読むとなるほどと思うが。インパクトは無いよな。こういう伝統俳句は強い。

百千鳥雌蕊雄蕊(めしべおしべ)を囃すなり

三橋、田中選、これけっこう上手いと思ってしまった。面白い句というのは一致した意見だ。春のうららかさが出ている。伊藤若冲のような句というのは高橋。作者は飯田龍太。やはり飯田龍太は上手い。

指さされかぼちゃ長持ち不二長持ち

かぼちゃの長持ちを富士(不二)に掛けたのか。ダジャレみたいな取り合わせだが。岸本、小林選。「指さされ」が余計だというのは飯田。そうだ!「かぼちゃ長持ち不二長持ち」のリフレインはいいというのはこれも飯田。確かに。作者は三橋敏雄。こういう口語的な句は得意だよな。

富士を見て顔色悪しき春炉かな

これは句会の情景を読んでいるのだと思う。上手い句だ。高橋、田中選。「富士を見て」の「見て」が説明的だという小澤實。「みて」は使いたくなる言葉ではあるが説明的なのか?「富士を見て」が「顔色悪しき」に付くのか「春炉に付くのか」わからないという意見が多数だが、すぐあとを修飾しているのではないのか?普通の語順的に読めばそうだよな。「富士を見て」顔色が悪いというのは当然という意見なのは安井。それはないよな。富士を見て顔色輝かすのが普通だろう。顔色が悪くなるのは俳人しかいない。これも岸本尚毅だった。何気ない句だが本当に上手い。

春寒く富士に似合はぬ顔ばかり

上の句と同じ感じだがこっちのほうがわかりやすくていいかな。小澤、岸本選。三橋は月並みすぎると。まあ、この句会の句だとしたら月並みかもしれない。でも一般的な情景だとすると異様は光景ではある。安井ももう一捻り欲しいという。俳句は即興じゃないのか?飯田は「顔」が単数の方が面白いという。確かにそれはあるかも。「春寒く」を他の季節に変えることも出来るという坪内の意見。「嘱目(しょくもく)」というのだとか。全然わからん。俳句用語だという。このへんがアマチュアとは違うな。

嘱目とは、題詠ではなくその場を写生する自由詠みたいなものかな?作者は高橋睦郎。この人も上手い。

山は春六腑機嫌の季と思ふ

小澤、田中、岸本選。これはなかなか洒落ている句ではないのか?小澤は旬の食べ物で機嫌がいいと読むが「五臓六腑」ということばから酒を連想する人もあるようだ。「季と思ふ」が余計だというのは坪内や三橋だった。新興俳句系との違いがそのへんにあるのかな。詠嘆調かな?作者は飯田龍太。飯田龍太は言葉の使い方が上手いかも。

天にゑくぼ桃の花どき過ぎにけり

その三橋、坪内、安井の選の句。「天にゑくぼ」は象徴としての言葉。写生ではなく、それが花が過ぎた頃のちょうど落ちくぼんでいる様子なのだが、「天のゑくぼ」とすることで春の明るさがある。上手い句だと思う。作者は小澤實。

春風は噛むべくもない歯確かに

安井、坪内、岸本選。「噛むべくもない」という悟りを読みながら「歯確かに」と自己にもどっていく。安井は「噛むべくもない」は概念の「こと」的世界だが「もの」的な世界に戻っているのがいいという。難しい句だな。「春風は」が説明的であるという。~は、説明的なのか?「春風や」がいいのではないかという飯田の意見。確かに。三橋敏雄の作。

確かにこのメンバーは上手い人が多い。また読みも鋭く面白いのだが、一般人にはなかなかそこまでは読めないのではないか。俳句仲間だけで通用する言葉も多い感じがする。


昭和俳句史「夜盗派」の挑戦─島津亮と八木三日女


「夜盗派」は「青天」を鈴木六林男中心とするメンバーが「青天」廃刊となり(戦後の紙不足で「天狼」に吸収される)そのメンバーの紆余曲折があって「夜盗派」が三鬼や六林男の指導を受ける形で、島津亮と八木三日女が中心となったという。衛星的な同人誌ということだろうか。

先に廃刊の理由を述べると方法の行き詰まりという力不足にあるようだ。それは象徴というのを従来ある見立て(直喩なんだろうか?)にしたのを象徴と理解していた。また金子兜太の造型俳句の影響を受けて独自性がなくなった。そんなところだろうか?

えっえっ泣く木のテーブルに生えた乳房  島津亮

これは泣く女をテーブルの樹木に見立てた句。「乳房」がテーブルに押し付けられているという情景だった。これだと心情を象徴として語ったのではなく、見立てとして比喩的な写生ということなのだろうか。そういう説明はわかるが何故これが駄目なのかは良くわからない。単に奇異だけで思想がないからだろうか?

うしろ向け改札の朝のチューブの都市 島津亮

これも見立てで、金子兜太の造型俳句に近い社会詠だという。島津のメタファーは本来のメタファーではなくコード化したもので、その謎解きでなるほどというような感慨しかないという。メタファーとしてその奥に広がっていかない。アレゴリー(寓意)でしかなと言う。それは似たような表現の羅列になってしまうのだ。

真っ直ぐあるいて消える人体広い工場 島津亮

中七が説明的に切れが悪いようだ。「人体」は無くてもいいのかな。それだと定形の無季俳句ということだが。

僕らに届かぬ鍵がながれる指ひらく都市  島津亮

俳句の短詩としての良さがないな。一生懸命言葉を説明しようとしている感じだ。

初鍋や友孕みわれ瀆れゐて  八木三日女

セクシュアリティが強い句なのだが鈴木しず子のような性愛俳句でもなく桂信子や橋本多佳子のような身体やものに託した句ではなく、アイロニー的な句である。

捧樺美智子 一句
雲雀の天使零(ゼロ)の星まで昇りつめよ 八木三日女

追悼の観念が感情的で、思入れが露出し過ぎだという。難し。独り善がりということだろうか?

象徴はアイロニーではなく想像界へ誘ってくれる開かれた文学ということなのか?春の象徴を薔薇とするように。桜ではコード化されているからな。でもコード化は俳句が求めるもの(共感性)ではないのか?

春の風ビニール傘の骨折れて  宿仮

象徴からは遠いか?
ミシンと蝙蝠傘(正確には手術台のミシンと蝙蝠傘)から考えればいいのかもしれない。

ゴミ捨て場にビニール傘の散る季節  宿仮

アイロニーかもしれない。メタファーは難しいな。

見つめてるビニール傘の雨水かな
いやいややややこ愚図つて春の雨
ひさかたのメールをするも反応なし
ゴミ捨て場にビニール傘の散る季節


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