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関東大震災から敗戦までの詩人たち

『東京詩集2(1923~1945) (都市詩集)』 (編集)正津 勉(解説)北村太郎

北村太郎は、よく知らなかったのだが、「荒地」の詩人で戦時の翼賛体制、詩人が文学報国会によって戦時高揚詩の『辻詩集』(辻説法のように街頭で戦意高揚詩をアジテーションする)『愛国詩集』を出して、「御稜威(みいつ)」と国体に染まっていく日本の詩壇を直に体験した世代である。『東京詩集1』が鮎川信夫で『東京詩集3』が吉本隆明の解説だったのもなるほどと頷ける。

戦後派だけど戦中を知っている詩人ということで、さらに関東大震災前に生まれ敗戦の時に青春時代だった北村太郎はモダニストの詩人たちが次々と皇国主義に傾いていくのを見ていたのだ。そして戦争が終わるとコロっと態度を変えて今度はアメリカ民主主義万歳になっていく。そうしたものに批評がなければ駄目だと感じていたのが「荒地」グループだったようだ。

これは『高橋源一郎の「飛ぶ教室」』で戦争文学特集で伊藤比呂美が戦後派から現代詩が始まり、戦時の詩人たちの体たらくの批判から始まったと言っていたことに繋がる。

狂躁・東京

野口雨情の関東大震災の詩「焦土の帝都」がはじめに出ていた。「赤い靴」とか「青い眼の人形」を書いた人。今読むと映画の主題歌のようだ。

高群逸枝が書いた「午睡時の帝都」(第三節)が朝鮮人虐殺を描いている。彼女は女性解放運動の人で「女性史学」の創設者だとウィキペディアにある。前半そんな内容でなんで「一団の女」が出来る意味がわからなかったがそういうことだった。

岡本かの子も短歌調な震災詩「わが東京」を書いている。

わが東京  岡本かの子

大地震(おほなゐ)に追われては来つれいまさらにわが東京を恋ひてしまず

焼原の灰たつ野辺になりぬともかへらであらめやわが東京へ

東京は東京なれや焼原となれりとて東京は東京なれや

われがいま銀座を歩めり焼原とよしなれりとて東京の銀座

そして西条八十の流行歌の復興後の「東京音頭」。

暗景・東京

ここからプロレタリア詩がかなりはいってくる。有名な中野重治「雨の降る品川駅」は教科書に出ていたのか覚えている。ただプロレタリア詩は日本語を駄目にしたと言われたそうで、そんな中で中野重治の存在は大きいのだろう。私は詩よりも小説が好きだが。

そ佐多稲子も詩より小説かな。「プラットホーム」は中野重治の詩とも重なる。

小熊秀雄は東京の街シリーズ詩。一番この本に相応しいような詩だが、それほど詩として感じるものが少なかった。スケッチのような写生という感じでもなく自分の感情も織り込んでいるのだがニュース的な感じなのかな。スケッチ詩というのが相応しい。

そのあとにいよいよ中原中也の登場でやっぱ彼の詩は違う。詩として伴奏なしで歌のように言葉が独立している。リズムがいい。三拍子なのかな?ワルツ的なリズム。リフレインが決まっている。小倉秀雄になかったのはそういう音楽的なものか?

正午が 丸ビル風景  中原中也

あゝ一二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
月給取りの午休み、ぶらりぶらりと手を振つて
あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちゃな小ッちゃな出入口
空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる
ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても.........
なんのおのれが桜かな、桜かな
あゝ一二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちゃな小ッちゃな出入口
空吹く風にサイレンは、響き響きてきえてゆくかな

亡滅・東京

この後に萩原朔太郎『氷島』が出てくるのだが、やはり時代は中也の時代という感じがする。朔太郎も『月に吠える』や『青猫』で詩の一時代を築いたが、この詩の新しい感覚には過去の人にさせられたしまった感じだ。

中也が長生きしていたら翼賛的な詩を書いていただろうと言ったのは北村太郎だった。それは朔太郎の日本回帰と関係がありそうだ。ただ北村太郎は、萩原朔太郎『氷島』を評価している。永井荷風が古典的な散文を書いたがそれに通じるというような。モダンボーイである故に流行に敏感だったとか。当時西欧的な街が銀座で、日本のノスタルジーの街が浅草界隈だったという。朔太郎はイデオロギーとかより自我の赴くままにそうした過去のノスタルジーとしての日本回帰シていく(与謝野蕪村の世界)。そうしたインテリの弱さが出たとか褒めているのか貶しているのか。

萩原朔太郎『虚無の歌』は散文詩だった。韻文からの撤退という感じがする。でもそこから現代詩は散文詩が始まったのかもしれない。散文詩はまだよくわからないのだがボードレールが韻文の可能性を諦めて散文詩を行ったような。それもランボーの登場と関係があるのだろうか?ランボーが中原中也的に感じる。逆か中原中也がランボーだった。この乱暴者。

その頃に朔太郎は『猫町』という小説風の寓話も描いていた(たぶん経済的な事情だろうと思われる。当時は言論統制も行われて病的な小説なんて書ける時代ではなかった。それでなくとも朔太郎は処女詩集を検閲されたのだ(室生犀星のお陰で出版できたとか)。

非唱・東京

敗戦後の詩人たちの東京の荒廃詩。その中で戦争翼賛詩を書かなかった金子光晴は別格だったという。もう一人別格だったのが高村光太郎で彼の詩の変化が妻千恵子の死にあること。そこから精神主義が始まり、彼の詩の言葉が強いのでみんな惹かれて行ったのだという。

北村太郎の代表作の抜粋「センチメンタル・ジャーニー」は脚注に出ているのだが、長いけど彼の主張したいことがよくわかる詩である。

なぜ人類の惨めさと卑しさのために.........

  センチメンタル・ジャーニー  北村太郎

滅びの群れ、
しずかに流れる鼠のようなもの、
ショウウィンドウにうつる冬の河。
私は日が暮れるとひどくさみしくなり、
銀座通りをあるく、
空を見つめ、溺死の光のなかに泥の眼をかんじ、
地下に没してゆく靴を引きずって。
永遠にみていたいもの、見たくないもの、
いつも動いているもの、
止まっているもの、
剃刀があり、裂かれる皮膚があり、
ひろがってゆく観念があり、縮まる観念があり、
何ものかに抵抗して、オウヴァに肩を窄める私がある。
冬の街。

なぜ人類のために、
なぜ人類の惨めさと卑しさのために、
私は貧しい部屋に閉じこもっていられないのか。
なぜ君は錘のような涙をながさないのか。
大時計の針がきっかり六時を指し、
うつろな音が雑踏の上の空に鳴りわたる。
私はどうすればいいのか、
重たい靴をはこぶ「現在」と、
いつか、どこか「終わりの時」までに。
鼠よ、君は私にとって何であるのか。
すぎゆく一日の客の記憶、
大時計のうしろに凍りついた私の人生がある。
さびしい私の父、
私の兄弟の跫音がある。
街をあるき、
地上を遍歴し、いつも渇き、いつも飢え、
いつもどこかの街角でポケットにパンと葡萄酒をさぐりながら、
死者の棲む大いなる境にちかづきつつある。





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