シン・短歌レッス105
西行
『山家集』『新古今・哀傷』。西行が初めて奥州に旅をした時の歌で、古塚は藤原実方の墓だったと知って読んだ歌。「枯野」や「薄(すすき)」は実方の歌にも歌われている。
西行の歌の「形見」とは『伊勢物語』で業平が小野小町の髑髏と対面する伝承になぞらえている。後に芭蕉がこの実方の墓を訪ねようとした。
「あはれ」は小野小町が広めた言葉だった。「宮城野の原」は陸奥の歌枕で露と萩の名所として歌に詠まれる。『源氏物語』桐壺巻でも桐壷更衣がなくなったときに桐壺院が詠んだ歌。
西行の歌は頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏の哀調と重なっていくのだった。
「誰が魂の来たるらん」と蛍が軒下にやってくるのは白居易の詩句による。また蛍を人の魂と見立てるのは和泉式部の歌を踏まえている。
また西行はこの歌の直前にも「蛍」「沢」「魂」を詠み込んだ歌がある。
最初の歌は上の句は魂を蛍に見立てた趣向だが、下の句では自分の目で見て蛍と写実しているのだった。伝承を取り入れながら現実を写し取る西行の歌は虚実の仲介者となっているのだった。それは先の歌の実方と芭蕉の仲介者としての西行と同じだろうか。
動詞の工夫
「射す」という動詞は同じ結語に使われているが意味は少しづつ違う。一首目は息子の旅立ちに空虚さのようなものを感じている。西日と作者の視線が同一。
二首目は、学生と共に高揚感溢れる陽が射す部屋。
三種目は、冥王(悪のイメージ)閉じ込めているがいつそれが壊れるかもしれないという不安感(詞書に原子炉のことだと伺える)。
「陽が射す」は「陽が照らす」というよりも一点に集中する視線が強い。それは古典からの技法としてあるものだった。
作者に照らす日差しは一直線に悲しみの情を照らしている。
日が「照らしをり」ではなく「わたりをり」という結句で時間の推移を表現している。乾坤という光の強度がばったを一点の静寂に照らすのである。
風景の〈境界〉
北朝鮮に拉致された曽我ひとみさんが日本に帰ってきたときに「山、川、谷」という言葉を噛み締めてコメントしていた。その中に日本の風景の情緒があるという(ただ日本に長くいれば今度は北朝鮮の風景の情緒を感じないのだろうか?)
暗い谷川を上流にあるいていくと明るさに出会ったという歌。
それとは逆の歌で日本以外の砂漠を詠んだ歌をどう短歌では表現しているのか?
砂漠という無限に広がる風景の空間に境界を発見し、そこにある感情をメタファーとして詠うことによって、短歌的モチーフを発見する。
山、川、谷は境界を定める言葉になるのであり、例えば橋や坂、階段などの場所に境界が見出される。
観光地などの美しい風景を詠んでも響いてこないが、こうした日常的な風景に身体が実感(手触り)とする風景があるのだ。それは古典の藤原俊成の歌でも同じである。
短歌定型との戦い―塚本邦雄を継承できるか?
小林幹也『短歌定型との戦い―塚本邦雄を継承できるか?』を借りてきた。塚本邦雄が偉大すぎるのか?短歌やるまで塚本邦雄なんて名前は知らなかったのに、前衛短歌の雄と感じで偉大過ぎと感じたものだった。まず寺山修司の短歌に惹かれて、それから穂村弘に驚いたわけだが、その間というか、塚本邦雄の短歌はそれほど惹かれなかったのが正直なところ。
今だったら句跨りとか斬新な幻影イメージとか多少は理解したと思うのだがそこまでとは思わなかった。幻影性だったら釋迢空かな。失われた世界に留まるような、塚本邦雄もその線だと思うが、やはり寺山修司のイメージから入ったのだ。その先に石川啄木がいて、釋迢空と寺山修司という線かなと思うのだが異質な存在が塚本邦雄だった。何故そこまでもてはやされる?
塚本邦雄を継承している現代歌人って誰がいるんだろう。穂村弘も影響は受けたと言うが。そうか俵万智世代は塚本邦雄をガン無視したんだな。女性歌人には受けが悪いような。それで今は時代遅れという感じなのか?
前衛短歌と言っても塚本邦雄の中にあるのは和歌の古典性だしわりと保守的な人だと思っていた。「第二芸術論」に行き着くのなら短歌やってなくてもいいわけだし、私は俳句の短詩性が和歌から来るのだと最近知って短歌よりも和歌の方に興味があるのかな。ただ文語体(古語)で短歌は難しいんで現代短歌みたいなのを読んでいるに過ぎない。最初は俳句が主体の読みにくさから短歌に入ったと思うのだが、今度は短歌のフィクション性のなさの内輪の日常詠みたいなのがなんとなくいい気持ちがしないのだ。それは内輪に入れないというのもあるだろうか?その意味で塚本邦雄の短歌に近づけるかもしれない。
この疎外性かな。五七五七七で読まなくていい自由さにはあこがれる。
「こうていぺんぎん」はリフレインしているので一つの言葉として意味があるのだと思う。語割れと句跨りというのだが、十九八七でいいんじゃんないか?リズム感はあるようだし。それを無理に五七五七七に当てはめると
そう読むことに意味があるのだろうか?ただこの短歌は芭蕉の語割れを模倣したものだという。
これもリフレインが詩的なんだと思う。「白魚」「しらきこと」。それが「明けぼの」の一寸(一瞬)のことだというのだろう。この俳句も十分詩的である。切れもあるし季語もあるから、俳句なのだろう?
例えば今短歌界で塚本のように詠めるかというと詠めないのだろう。それは塚本短歌が普遍化されてはいなく特殊化だからというのだ。
NHK短歌
二物衝動。短歌でも有効なのか?吉川宏志さん、テーマは星。星は夜と繋がりやすく孤独なものとしてのエモさが出すぎるので、抑えることが必要かと。二物衝動はシュルレアリスムと関連してくると思う。小林幹也『短歌と定形との戦い』から「塚本邦雄のシュルレアリスム」をやりたい。その前にラップと短歌。ゲストいとうせいこう。頭の音韻は、短歌になりやすく、後の音韻は理屈ぽくなりやすい。最近のラップは、後韻。
いとうせいこう氏。最近の社会詠は無力感ばかりだがそれだから自由気ままに詠める。無力上等!有力感があったら言葉は出てこない。自制するのではなく吐き出すことが大事。無力感を忘れたら偉ぶる人になる。
塚本邦雄のシュルレアリスム
小林幹也『短歌と定形との戦い』から「塚本邦雄のシュルレアリスム」
めちゃくちゃ難解だな。まず旧字表記がわからん。縹(はなだ)は花田色=肌色ということだった。茄子料理が歯に染みるとかわからん。麻婆茄子なのか、たまたまなのか?シュルレアリズムだからたまたまなんだろう。ブルドンに帰依するというのはシュルレアリストになるということなんだろう。つまり否定しているのか?この歌の本歌取りが小野小町の有名な歌だという。
デペイズマンという特殊用語使って説明しているが、場違いということのようだ。雉と半裸のピカソが場違いに出会う。二物衝動ということだろうが。
塚本邦雄がシュルレアリスムの手法を学んだのは前川佐美雄『植物祭』だという。
うたの日
「める」だった。難しいな。意味は「めいる」みたいなんだが。古語的には接頭語としてあるようだ。「~める」という接尾語もあるかな。
『百人一首』
「める」の意味がいまいちわからなかったので適当に音韻で誤魔化す。「百人一首」もあまり引っ掛けてなかったな。雰囲気で。♡一つに♪6。「青やどかり」に変えてから最高だった。でもレベルが低いかな。今回は出題が難しすぎた。というか意味がよく理解できなかった。動詞で「~める」という人が多かったのに自分の短歌はそういう使い方ではなかった。ほとんど意味不明だけど音韻的な処理だから。なんとなく意味が伝わればいいと思っていた・
映画短歌
『市子』
『百人一首』
これも言葉をねじ込んだだけだった。本歌取りも言葉ではなく雰囲気取りだった。
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