シン・短歌レッス109
王朝百首
今日から塚本邦雄『王朝百首』をやろうかなと。塚本邦雄の仮想敵藤原定家の『百人一首』はそれほどいい句ばかりでないと言うのだった。それは自分には判断出来ないが、塚本邦雄が言うことはけっこう支持されているのだ。良い悪いもある程度自分の主観になるから、その俳句観が分かるというもの。塚本邦雄も言っているのだが和歌の世界には積み重ねられてきた伝統があり、それをまず知っておく必要があるのではないかという。藤原定家の『百人一首』、塚本邦雄『王朝百首』意外にもいい歌は存在するのだ。ただ初心者はその手がかりがないから、こうしたテキストに当たるのだと思う。当たって砕けろということ。
それでまず大好きな業平の歌なのだが、なんだこの和歌の形式を無視した詠みようは。そういう斬新さかな。五七五七七の形式ではないリズムがあるのだ。
区切るとこんなところだろうか?三三三四五七七でもリズムがあるし、詩的言語となっているのは、音韻も前半の「や」のリフレイン。そして下の句の「ぬ」は係り結びという「や~ぬ」の形で、月と春が反語で「ないだろうか、否ある」となっているのだ。その影に昔の恋人がいるのだが、今はいないということなのである。自分の境遇は変わってしまったのに世界は変らないという絶対的な個人を詠んでいるとするのだ。それがあえて五七五七七のリズムを崩しても強調したいリズムとなって現れてくる(それを紀貫之は「こころ余りて、言葉足らず」と批評したのであった。塚本邦雄はそれは当たらないとする)。それは係り結びのリフレインということだった。これは真似したい!
塚本邦雄と三島事件
小林幹也『定形短歌との戦い』から「塚本邦雄と三島事件」。三島由紀夫は苦手なんだよな。その美意識が。そういうことから塚本邦雄の美意識も苦手なんだが、まだ塚本の美意識はそれが幻想だと諦念があるから許せるのかな。現実とごっちゃになってしまった三島由紀夫は哀れというか、三島由紀夫の嫌いな太宰と同じことをしたんじゃないかと思う。フィクションはあくまでもフィクションとして、塚本のように言葉の世界だけで楽しむのが正しいと思ってしまう。
NHK短歌
これは第一週だから元旦の放送分だった。短歌の破調。これはけっこう重要な回だと思うが相手が破調を汲み取ってくれるかどうかで分かれると思う。まず投稿では基本五七五七七が無難である。そして、選者が破調が好きかどうかも問われると思うのだ。
川野里子は例題として自分の歌の破調を出してきたのでこのパターンはOKなのかな。地名の破調。
モルダヴはドボルザーク。ミシシッピーはブルース、神田川は四畳半フォーク。モルダヴはちょっと違うか。セーヌ川の方がいいかと思ったのだがロマンチックになりすぎなような気がした。
あとリフレインは字余り関係なく許されるというのはこれまでにもあったと思う。字余りは、結構甘いかもしれない。
字足らずの方が、明確な理由がないと究極の短歌にはならないということだった。
かつてこの歌を「うたの日」に出したが理解されなかった。三句目が欠損しているのだが、次の「忘れぬコトバ波に流され」で三区目のコトバが流されたと主張したのだが、理解してもらえなかった。間に空きを作って明確な意図を出すべきだというのだが。
確かにそうかもしれないな。ただこれは本歌取りであったのだ。
三句目を書かなかったのはミスなんだけど、破調はあまり支持されない(特に字足らずでは)。それがいけない理由は五七五七七という隷属の韻律に慣れてしまったからだと思う。まあ短歌のサイトだからそういう約束事を守らねばならないのだが、「隷属の韻律」ということを考える人もいなかった。
NHK俳句2回になってしまった。
山崎聡子さん「あこがれ」
YOUさんのあこがれのつぶやいきを短歌にしたのだが、「私死んでません?」という発言が面白かった。魂は「生霊」もあるが、「わすれないでね」は過去に対して言ってるのだから死んだ人と取られても仕方がないよな。石川セリの歌だな。
いつになったら終わるのか?
うたの日
「足」だった。蛸は足を喰ってもというのはことわざなんだろか?タコ足配線も違うしな。たこ八郎だよな。彼に捧げる短歌にしよう。にあった。
『百人一首』は終わったから、上の短歌の本歌取りにしようか?
たこ八郎じゃないけど雰囲気で。
これで出かけられる。
「うたの日」とはまったくそぐわない八代亜紀追悼短歌だったが、♪3。コメントが嬉しかった。
映画短歌
『ゴーストワールド』
本歌取り和歌。
「クレオール・ラブ」はエリントンの名曲「クレオール・ラヴ・コール」
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