シン・現代詩レッスン41
西脇順三郎
『百人一詩』は今日は休みで『詩人たちの世紀―西脇順三郎とエズラ・パウンド』から。西脇順三郎は確かに重要性があるなと思った。また西脇順三郎の詩はパロディとか諧謔性でわたしも詩にイメージするのはそういう部分だった。それは所詮言葉は借り物で何かを言いたいときも言葉を借りてこなければならない。その中で近似値を探るのだが、まったく同じというわけでもなく少しズレている。その部分がパロディとか諧謔になるのではないのか。本歌取りもそういうことだよな。芭蕉が和歌から後半を外して諧謔的に振る舞ったのも世界とはそういうもんだと悟ったのかもしれない。西脇順三郎の芭蕉理解は諧謔性ということだった。
『旅人かへらず』
色彩に溢れる世界だが、例えばその色彩を生物学色彩の色記号で理解しているのはない。かと思うと古い名前はどんどん絶滅していくのだった。例えば日本の色彩には様々な色合いがあったのだ。
それは花の色だったかもしれない。しかし個々の花の色はそうした概念で分けられるものでもなくグラデーションがあるのだ。それを旅人というように象徴しているのだった。名もなき花の色はただ流れていくのみ。それは言葉=色彩と同じような感じなのかもしれない。
色は混ぜ合わすと実際には明るくなるのだそうだが、絵の具では暗くなってしまうという。それで印象派は絵の具の色を分離させて光を表現しようとしたのだ。よく知っていると思ったら最近のNHKラジオ講座で「印象派」についてやっていたのだ。
西脇順三郎も色彩の詩人ではなく光の詩人なのかもしれない。
村上春樹のこの小説は読んでないのだが、村上春樹もモダニズム文学の人だから西脇順三郎ぐらいは読んでいるのかもしれない。花の名前が色だった時代の神話性。そうした言葉でイメージできたものが出来なくなっている。絵の具の色もいろいろ呼び方が変わるとか。「肌色」は今は使えないとか。言葉もそうした概念に縛らられていくので、その呪縛から逃れるために詩人は旅立つのかもしれない。
色彩の概念化はただ流れていくイメージの世界だ。そこに言葉との関係性も見出しているのかもしれない。色彩=言葉の世界。そうしたイメージは「方丈記」の世界ではないが未来永劫流れていく仮称の世界なのか?