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異教徒の詩人、中原中也

『中也を読む 詩と鑑賞』中村稔

あゝ おまへは なにをしてきたのだと・・・ 吹き来る風が私に云ふ
近代の倦怠と孤独にさいなまれる中也波瀾の30年の魂の軌跡を、詩と鑑賞でたどる――。
評論だけではなく、中也の詩や日記、手紙などの作品も収録。中原中也を知るための入門書であり決定版を装いを新たに刊行。

Amazon紹介文

朝の歌

朝の歌  中原中也

天井に 朱(あか)きいろいで
  戸の隙を 洩れ入る光、
鄙びたる 軍学の憶(おも)い
  手にてなす なにごともなし。

中原中也の詩は歌曲と相性がいい。最初に出た「朝の歌」も歌曲としてだった14行詩、4行4行3行3行の4連からなるソネット形式。文語の七五調の定形は短歌からの影響であろう。

歌の内容は詩人の懈怠感で、この時期に長谷川泰子が小林秀夫の元に行く。それを小林秀雄に見せる。なんともややこしい三角関係だが、一人のミューズ(女神)を巡ってそれが中也の詩を掻き立てたのは事実であろう。光を失い懈怠の朝を迎えるのである。フランスの象徴詩(ヴェルレーヌやボードレールら)の影響にあるのは、友人の富永太郎を介してである。その辺の事情は、大岡昇平『中原中也 』に詳しい。

『臨終』に曲を付けて歌っている人のYou Tubeが気に入ってしまった。

その他にも友川かずきも歌っていた。

友川カズキはアルバムまで出している。

その他中也の詩は実際に歌手によって歌われることが多い。初期の抒情詩人は、北原白秋を始めそういう傾向だったのである。谷川俊太郎が対談(『詩活の死活』)で現代詩が朗読されず難解になっていくのは、声よりも文字の象徴性のせいだということを言っていてなるほどと思う。この頃の詩は声に出して読まれることを期待された。

中也の詩はその他にも武田鉄矢『思えば遠くへきたもんだ』(『頑是ない歌』)もそうだが、ただ中也の詩は逆説的で感傷的な要素よりは絶望だ。その点室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの」と同じようにすでに帰る場所ではないのだ。ただ中也の詩が感傷的鑑賞されてきたのは事実である。

孤独以外に、好い芸術を生む境遇はありはしない。交際上手な、この澱粉過剰な芸術家さん。(「日記1027.1.17」)

ためいき   河上徹太郎に

ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気の中で瞬きをするのであらう。
その瞬きは怨めしさうにながれながら、パチンと音を立てるだらう。
木々が若い学者仲間の、頸すぢのやうであろう。         

中村稔『中也を読む』

「ためいき」が町中を彷徨う姿が詩の中で展開していく。河上徹太郎はその中にロシア文学に負う風景描写(この詩はチェホフの影響だという)を見るが、イメージの飛翔としての「ためいき」がその穏やかな世界を巡っていくのだ。その対比の面白さ。中也の詩の構成の見事さ。

少年時  中原中也

黝(あをぐろ)い石に夏の日が照りつけ、
庭の地面が、朱色に睡つてゐた。

地平の果に蒸気が立つて、
世の亡ぶ、兆(きざし)のやうだつた。
(略)
私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めてゐた………
噫(ああ) 生きてゐた、私は生きてゐた!

中村稔『中也を読む』

「黝い」という漢字がこの詩を制している感じだ。解説によると中也が「朝の歌」で初期詩集がはじまり、『山羊の歌』のこの詩で中也の詩を確立したという。少年時の回想はこころの故郷でありながら、そこに少年の残酷性が潜んでいる。まあ大量の蟻を踏みつけたことの少年時の記憶というような。

山羊の歌

大岡昇平の中原中也像は、羊は生贄としての中也の息子を奪い去った。その懺悔として神への捧げ物としての詩として、大きな断絶(息子の死)があったとする。それが懺悔としての中也の詩である。しかし中村稔の考えは、継続としての「羊の歌」があると見ている。それは「祈りの詩」であるかということなのだが、長谷川泰子との別離で奈落の底に突き落とされたにもかかわらず長谷川泰子は相変わらずミューズなのだ。

それは「秋」から「修羅街挽歌」に歌われる情景は、修羅として(宮沢賢治の『春と修羅』が先行してありその影響を受けているという)茨の道を切り開くよりも挽歌として青春(夏)を懐かしむのだ。そのなかで引き起こってくる感情の激しさと秋の気配(中也のもはや青春時代ではないという諦念)として「心よ、謙抑にして神恵を待てよ」なのである。

大岡昇平『中原中也』では息子の死が転機となって、贖罪の詩を書いたということだが、関係がなかった。それは小林秀雄に手渡したときにそういう表記がなされなかったこと(日付を入れなかった)。つまり小林秀雄がそういう読みに誘導したのではないかと思われる。

それ以降の詩も無反省的に女を求めたり酔いつぶれて反省したりしている詩人が中也なのだ。そこにはミューズ(女神)を求めていたものがある。それは芸術が商売として堕していき、当たり前のような芸術気取りがたまらないのだ。太宰治にからんだのは、それ故かもしれない。芸術(詩)を求めるあまり現実生活では生きていけない狂人の叫びと化してい。贖罪の羊の詩ではない。

 いったいランボーの思想とは?───簡単に云う。バイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一枚歌としての価値を有つてゐた。
 さういう彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何もなかった筈だ。その陶酔を発想するといふこともはや殆ど問題ではなかつたらう。
(略)
云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰も在るには在るが行き道の分からなくなった宝島の如きものである。

中村稔『中也を読む』から中原中也「ランボオ詩篇」より


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