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架空女性作家の文学論

『エリザベス・コステロ』J.M. クッツェー 、 (翻訳)鴻巣 友季子

文学の本質を探求する作家の業を描き、欧米の読書界騒然、ノーベル賞作家の問題作。オーストラリア生まれのエリザベス・コステロは、『ユリシーズ』に着想を得た『エクルズ通りの家』で世界的に知られる作家だ。六十も半ばを過ぎてなお、彼女は先鋭的な発言をし、行く先々で物議を醸す。ある文学賞授賞式のためにはるばる渡米したときは、スピーチやインタビューで棘のある言葉を吐き、付き添い役の息子とも意見を闘わせる。また文学講師を務める世界周遊の船では、旧知の作家と再会しても、彼の作家としての姿勢、文学論に異論を唱えてしまう。人道活動家の姉ブランチが住むアフリカでは神と文学まで話が及び、さらに神話やエロスについて考察を深める。文学シンポジウムに出向けば、批判的に取り上げようとした作家本人が出席することが判明し、角を立てまいとスピーチを書き直すべく徹夜するはめに…。『恥辱』で二度目のブッカー賞を受賞した著者が、架空の作家エリザベス・コステロを通して小説とは何か、作家とは人間とは何かを問う、審判の書。

リアリズム

西東三鬼『俳禺伝』で新興俳句弾圧事件で逮捕されたときに特高が彼らを逮捕したのは「リアリズム」という言葉だったという。それはソ連からの司令で「プロレタリア・リアリズム」を決定したという通告を日本に伝播させるために、リアリズムという言葉を使うという公安の逮捕の理由だった。コミンテルンの指示を受けて伝播しているというのだ。

西東三鬼はむしろリアリズム否定派でありそれを雑誌に載せていた。

「態度のリアリズムは俳句を階級的闘争の場に限定するだろう。それは俳句の大衆性を利用することであって、俳句そのものを狭くしめつけてしまうし、定形という観念にも矛盾してくる。火のような革命家が定形俳句をいじくる姿は想像できない」「俳句に於けるリアリズムは手法にとどまる」

それでむしろリアリズムに反対していると言って公安を納得させたと書いている。新興俳句が詠もうとしたのは虚子が花鳥風月のリアリズムではなく、観念の世界だった。

そして、架空の作家エリザベス・コステロはリアリズムの作家よりはフィクション(虚構)の、彼女の注目作がジョイス『ユリシーズ』の部屋に閉じ込められていた妻がヒロインで街の通りに出てくるという作品を書いたという。部屋に閉じ込められていた妻を街なかに解放したと話題になる。それで一躍有名になりオーストラリアの女性作家として、権威あるアメリカの賞を受けることになった。

その受賞スピーチがカフカ『あるアカデミーの報告』でありその賞を揶揄したようなスピーチになったのだ。それというのもアメリカのインタビューが女性オーストラリア作家のリアリズムばかり質問してくるので、多少うんざりしたのかもしれない。面白いと思ったのは大江健三郎の「晩年の仕事」のおかしな二人組に重なる登場人物だった。大江の場合は長江古義人と障害を持った息子であり(他に様々なヴァリエーションが出てくるが)、ある程度のリアリズムを感じさせるモデルがいた。しかしクッツェーの作品では老成したオーストラリアの女性作家と若ハゲの息子という組み合わせでまったくのフィクション。息子は女性作家のマネージャー役のように母に付き添いながら、母に文学議論をふっかけようとした女性批評家と一夜を共にするのだが、そして、翌日母にフェミニズム批評の本が渡されるというストーリーなのだった。

その中で息子と母あるいは第三者との文学理論の対話のような短編で面白かった。この本の続編のような『モラルの話』を読んで、エリザベス・コステロという架空の作家の小説を読みたいと思ったのである。

アフリカの小説

クルーズ船の文学講演に招かれて、そこ出会ったアフリカの作家のコロニアム文学の講演を聞いて、アフリカの作家は口承文学を受け継ぎながら英語で書いているという現実。それはアフリカ国内向けよりも海外向け、むしろ支配国向けになっているという現実がサイード『オリエンタリズム』の問題であり、それでそのアフリカの作家に疑問を呈するのだが、彼女の若かりし頃はそのエキゾチシズムに惹かれたという事実が明らかになる。個人と文学という問いはその後に問題になっていくのだが、エリザベス自身が晩年になって変化していく過程を示しており、二つの自己は同じなのかという問題が含まれている。

アフリカの人文学

エリザベスの姉は敬虔なクリスチャンとしてアフリカの僻地医療に係わりエイズ撲滅運動に貢献したとして大学の人文学で表彰されるのだが、そのゲストとして呼ばれ姉と神学論争になっていくのだ。エリザベスは合理主義的な無神論ではあるのだが、姉の教団のミサを聞いているときに意識が飛んでしまい姉らに介抱されるのだ。そのときに神的なものを感じたような気がするのだが姉の前では口が裂けても認めたくないというような。

悪の問題

ナチス関係の小説を読んで、そのラストがナチスにいたぶられて殺されるレジスタンスの話で、若い時はそういうことが気にならなかったのだが、悪が勝利する小説は良くないのではないかと批評するその講演に作者がいて右往左往してしまうエリザベスを喜劇的描いている。作家は何を書こうと自由だと思っていたそれまでの自分が崩れていくのだった。

エロス

神、悪と来てエロス(愛)の問題だった。ギリシヤ神話からセックスを想像してもだえる女性作家という喜劇。それらは幻影だと思うのだが、いつの間にかダンスにも加われない足腰がよわっていく婆さんになってしまったと思うのだった。

門前にて

そこで検問所みたいな所で通行許可を求める書類を出さねばならないのだが、その履歴を書きながら門番と押し問答していく。カフカ『掟の門前』のパロディ(オマージュ)なのだが、クッツェーがカフカ好きなのは最初の「リアリズム」でも受賞講演で話したのがカフカ『あるアカデミーへの報告』の文明化された猿の話だった(つまり自分はそのような立場だと)。ただカフカの話が不条理劇なようにここでも不条理劇的な物語を辿っていく。

追伸

ホフマンスタール『チャンドス卿の手紙』のパロディでチャンドス夫人がエリザベスという名でフランシス・ベーコンに手紙を書いているのだ。夫の言葉の不信感とか猜疑心とか、狂人としての夫を救うのはベーコンしかいないというような手紙だった。似たもの夫婦の狂気の話。

文芸批評ではあるが、老いたるエリザベスの作家としてのありかたという喜劇的な小説になっていて面白い。大江健三郎がドン・キホーテのメタフィクションならクッツェーはカフカのメタフィクションか?


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