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古代仏教哲学と道教の関係は興味深い

『インド哲学10講 』赤松明彦(岩波新書)

二千年以上にわたり重ねられてきたインドの思想的営みから,私たちは何を学ぶことができるのか.世界のなりたち,存在と認識,物質と精神,業と因果,そして言葉それ自体についての深い思索の軌跡を,具体的なテキスト読解をふまえながら学ぶ.難解と思われがちなインド哲学のおもしろさと広がりをとらえる,刺激的な入門書.

10講がインド哲学史の簡潔な紹介ではなく(第一講は「インド哲学のはじまりと展開」なのだが)、それぞれ西洋哲学に出てくる「存在と認識」「存在の根源」「二元論の展開」「因果論と業論」「現象と存在」「生成と存在」「言葉と存在」「存在と非存在」「超越と存在」と展開していく「一(神)者と存在論」でかなり奥が深い。よく整理されていると思うがそれでも行ったり来たり迷うこと必死で神を見失いそうになる。初期は秘伝だったわけで言葉にするだけで呪われていたりしたのだ。ジャイナ教とか仏教が出て構造改革が進み様々な解釈が出てくる。

例えば、荘子の「胡蝶の夢」はインド哲学にも出てくる。現象界を一者の仮の現れとするシャンカラの因中有果論。一者は絶亭的な神ブラフマン。ブラフマンの仮の姿で様々な分節として現れてくるのがアートマン(天使的な存在か、下位の神々)さらに自己を持つ人間その他。スクリーンにプロジェクターで映し出された仮想世界の比喩とかP.K.ディックのSFの話みたいだ(「胡蝶の夢」もディックで最初に知ったのかも知れない)。非存在は言葉で指し示されるというバルトリハリの哲学は現代思想のデリダみたいだ。

分節化は言葉によって行われるがそれは人間の概念であり、実際はブラフマン一者の中に世界は一体化してある。スピノザの一神論にも通じる。世界は永遠不変であり、自我の存在が言葉で「覆いかぶせ」ている。「顕現」という思考は道元の「仏性」で説明されたり、井筒俊彦の東洋哲学の紹介もあり奥深い哲学の世界。(2020/01/19)


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