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シン・俳句レッスン16

今日の一句

テッポウユリだと思ったらタカサゴユリという外来種があって、その交配種のシン・テッポウユリというのが勢力を拡大しているらしい。あっちこっちに咲いている。だいたい八月は俳句的に秋であり、お盆過ぎだから秋の季語だと思ったらテッポウユリは夏の季語だった。

行き倒れシン・テッポウユリは咲く

ホームレスの手向けの花かも。

これも句またがりのテクニックだった。今日はテッポウユリで10句かな?

手向けのテッポウユリやホームレス

富澤赤黄男

新興俳句で最初に好きになったのが

蝶堕ちて大音響の結氷期  富澤赤黄男

だった。富澤赤黄男は『天の狼』で有名な新興俳句でもモダニズムの詩人たちから影響を受けて俳句は短詩であるというような、俳句の伝統よりもモダニズムの近代詩の方に興味があったようだ。それが「鶴の抒情」の頃の作品で戦争俳句を「旗艦」に発表するまでの富澤赤黄男の第一期だとする。それは白泉や鳳作、三鬼らとエスプリ・ヌーボ(新詩精神)を追求した時期であった。「結氷期」を「氷河期」と覚えてしまっていた。

富澤赤黄男も影響を受けやすい人で西東三鬼と同じように高屋窓秋の模倣の俳句を多く作った。それは青年時の自己形成前の影響というような早熟性だという。それは俳句だけではなくモダニズムの詩人たちからも影響をうけていたのもその線であろか?その時の俳句は詩からイメージされて、それを俳句のするという手法だったようだ。

『土竜』
男は
  乳のしたたりに
女の胸の中で
土竜のやうに濡れてゐる

俳 恋人は土竜のように濡れてゐる  富澤赤黄男

そんな富澤赤黄男は従軍して抒情詩的な行軍俳句「ランプ」を発表してたちまち人気になるのだ。それまでモダニズムの難解な俳句だと思われていたのが、俳句形式に映像の鮮やかさを用いて一篇の抒情俳句を詠んだ。それは幼い娘に宛てたものだったのだ。

むしろ俳句の詞書の「潤子よお父さんは小さい支那のランプをひろつたよ」から叙情性を汲み取ったのかもしれない。

落日に支那のランプのホヤを拭く
やがてランプに戦場のふかい闇がくるぞ
靴音がコツリコツリとあるランプ
銃声がポツンポツンとあるランプ
このランプは小さいけれどものを想はすよ

富澤赤黄男『ランプ』

それから富澤赤黄男は戦争俳句を同人俳誌「旗艦」に投稿するようになる。そしてその後の過程は、川名大『戦争と俳句』に詳しい。

日本の抒情詩人たちが率先して戦意高揚詩を書いたのは中野敏男『詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」』でも明らかにされるが、ただ富澤赤黄男『ランプ』は戦意高揚というよりも減退していくような内容だが。それと桑原武夫が俳句第二芸術論で言ったことも、日本の詩人たちも戦争協力したので俳句や短歌だけにその傾向があるというとは違う。小説家はたまたま、まとまらなかっただけで戦意高揚を煽った小説家もいたようだ。従軍記を書いた女性作家とか。

ただ富澤赤黄男はその後俳句協会の会長にもなるのだが、その俳句界の暗部を明らかにしようとはしなかった。そのことで白泉に批判されたのだという。たとえば西東三鬼については、「京大俳句弾圧事件」のときに随分と批判したようなのだが、戦後、三鬼とも手を組むようになるのだ。そうした富澤赤黄男の機を見る風見鶏的な傾向があるようにも思える。その転機がまさに、『ランプ』での名声だろうと思うのだ。人間名声には弱いもの。

そして知らず知らずに軍人精神がモダニズムの詩神にも侵食していくのだ。このころの特徴として、漢文訓読的な俳句を量産していく。その代表作が、「蝶堕ちて」の句だった。富澤赤黄男にとって漢語は古典的な造型をするモダニズムと変わりがなかった。モダン都市と軍国主義という時代の影響を受けたのが富澤赤黄男の俳句なのだ。

蝶堕ちて大音響の結氷期  富澤赤黄男

悩み別作句技法

二講義目は、今日も北大路翼『生き抜くための俳句塾』から。ちょっと休憩。今日は家にいたのは失敗だった。それで「シン・俳句レッスン」なんて罰ゲームみたいなことをやっているのだが。要するに悩んでいる暇があるなら俳句でもつくれや、ということなのかもしれない。

テッポウユリにうたれや俳句道

「うたれ」は「撃たれ」と「歌れ」の掛詞。

富澤赤黄男風だと。

観念や鉄砲百合の自殺者

シャワー浴びテッポウユリも萎れたり

エロ俳句だった。

ナルシスやテッポウユリは水の外

神話的なモダニズム俳句かな。

水鉄砲百合と戯れてもひとり

放哉風。百合だからひとりレズビアンか?

七夕の思ひつかない願い事  北大路翼

この句は好きかも。俳句には季節事のイベントがあるからそれについても詠むのもよし。実際に参加するのは寂しいものがあるから、せめて俳句を詠むべし。それと「思ひ」は歴史的仮名遣い。最初はそれでやるのがいいという。過去作は歴史的仮名遣いの句が多いのでそれを覚えるのもルールだという。そこはちょっと違うが短歌では歴史的仮名遣いにしようとしているので一応勉強しておく。

例えば「テッポウユリ」は「てつぽうゆり」の方がいいのかな?
でもナルシスの句の場合はナルシスがカタカナだからな。交じるのは良くないとか。シャワーとかもカタカナの場合どうするんだろう?シャワーを和語でなんという。水浴びか?

水浴びててつぽうゆりも萎れたり

ちょっと意味が変わってくるな。

てつぽうゆりにうたれや俳句道

これはいいのか?

水てつぽう百合と戯れてもひとり

これはいいんじゃないか?品格があるような。「水」は「みづ」とルビを振る。

吊り革の白さが垂れて敗戦忌  翼

これもいい。

童貞や西日があたつてゐるティッシュ  翼

カタカナ語はありだった。

呼吸器と同じコンセントに聖樹  洋勝

筋ジストロフィーの相談者の一句。素晴らしい。

季語は駄目だけど思いを春夏秋冬に当てはめて4句が出来るという。

◯◯◯◯◯なぜにこの句が選ばれぬ

季語+十二音の俳句の作り方。

テッポウユリは字余りになるから中七しかないか句またがりの手を使って

この俳句テッポウユリは選ばれぬ

名人の句をなぞりたる夜の秋  翼

これもいいとは思うが駄句なんだそうだ。「夜の秋」は夏の季語。「秋の夜」ではない。

幸せを疑つてゐるお年玉  翼

二物衝動。逆説の俳句か?嫌味な俳句だという。他人を詠むのが川柳で自分を詠むのが俳句という。百合の句は川柳か?

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